JR岐阜羽島駅前から県道を歩行者天国にし、なまずグルメの販売をはじめ、物産ブースなどが楽しめる「ぎふ羽島駅前フェス2024」(11月9.10日開催)。
今回フェスを通じて行われた「全国ナマズサミット」では、羽島市、埼玉県吉川市、福岡県・大川観光協会、佐賀県・嬉野温泉観光協会、
広島県神石高原町の関係者の方々が、ナマズに関する食文化や町おこしの取り組みについて紹介しており、
大変興味深く、深く理解することができました。
同時に、生き物文化史誌学会 常任理事の緒方先生からは、日本にはナマズを食べてはいけない地域もあり、
その背景にある信仰の重要性についてお話をうかがいました。
私自身、これまでに全国のナマズにまつわる伝承地を多く訪れてきましたが、「信仰に基づかないナマズを食べる祭り」は、
初めてのことで、とても新鮮な印象を受けました(※1)。
地域の関係者によると、羽島市を流れる逆川(竹鼻町と下中町加賀野井の境付近から派生し、
羽島市内を流れて長良川に注ぐ木曽川水系の河川)には、ナマズがたくさんいるそうです。
また、会場移転の際には、地域の方々が協議を重ねた結果、「なまず太皷」(写真⑧)の名前はそのまま残すことになったとか。
なるほど、この地域で食文化が根付くのは自然なことですし、「ナマズ」が祭りの象徴であることもうなずけます。
一方、会場の移転を機に場所を変えた、祭りを通じて作られた「木彫りナマズ」があるということも教えていただきました。
現在は、会場から北東に2km余り離れた八剱神社に御神体として祀られているのこと。
さっそく現地を訪れたところ、ナマズを祀る祠を置いた小舟が、境内の大池に浮かんでいました(写真⑨)。
古くより出世開運・除災厄除の神として崇拝される八剱神社にちなんで宝船の形で祀られているのかもしれません。
思えば、物産ブースでナマズ絵馬(商品化された現代の絵馬)とナマズの土鈴を購入したのですが、
絵馬には、鯰絵「繁昌たから船」の
図柄が印刷されていました(写真⑩)(写真⑪)。「
ぎふ羽島駅前フェス2024」は、地域の方々が、祭りを盛り上げようと試行錯誤を繰り返しながら、努力が伝統として形になり、
これからも大切に受け継がれている貴重なお祭りだと思いました。
(※1)「ナマズを食べることが信仰に基づいた祭り」の一例としては、滋賀県の三輪神社の例祭が挙げられます。
この祭りでは、東西に分かれた当番村が伝統的な鰌鮨(ドジョウとナマズを使ったナレ鮨)の神饌調理が行われます。
厳重な清浄が求められるナレ鮨は、神輿に担がれ町内を練り歩き、神事の後に地域の人たちでいただきます。
また、かつては、熊本県井口八幡神社の「川なまず」という祭りでは、田んぼの水や川をせき止めて水を減らし、
ためた水の中の魚を捕り、
それを持ち寄って料理し、みんなで食べるという自然崇拝を目的にお祭りが行われていました(現在は開催されていません)。
2017年に埼玉県吉川市からの呼びかけではじまった「全国なまずサミット」が、先週末に開催されました。
今年の会場は「ぎふ羽島駅前フェス2024」のメインステージ。
ナマズを活かしたまちづくりに取り組む自治体や関係者の方々が、ナマズに関する食文化や歴史などを発信します。
祭りでは「埼玉県吉川市のイメージキャラクター「なまりん」と、岐阜県羽島市のたけちゃん・はなちゃんが登場し、
イベントがとても盛り上がりました(写真①)。また、自治体の方々が熱心にナマズの食文化や活動について語られている中、
ご縁をいただき、僭越ながら私もスピーチをさせていただきました。
改めて、全国のナマズにまつわる信仰や風習に関する情報を共有し合い、地域振興がさらに活発に進んでいくことを強く実感しました。
前日には、ナマズをはじめとする川辺の生物や環境をテーマとした講演会「川辺の生物サミット」も開かれました。
岐阜協立大学・森教授、埼玉県吉川市・中原市長、羽島市・松井市長の講義を、地元の小学生たちが熱心に受講していました。
岐阜県は木曽川と長良川に挟まれた地域であり、豊かな水資源のもと、ナマズをはじめとする淡水生物の宝庫。
この地域においても、河川や湖などの自然環境の保全にも取り組み、淡水生物を大切な財産として守り、文化の継承を推進しているといいます。
また、ナマズを食べた後におちょぼ稲荷をお参りするという慣習があったというお話が印象的でした。
その後催されたレセプションでは、ナマズの蒲焼きやなまずフライ、なまずバーガーなど、食べきれないほどのナマズ料理が並び、
改めてナマズの食文化が長年にわたり受け継がれてきたことがわかりました(写真②)(写真③)。
この「ぎふ羽島駅前フェス2024」(写真④)。祭
りの由来は、もともと1891年に羽島市で発生した大地震にあります。
その震災を風化させないために100年後の1990年に始まったと伝えられています。
以前は祭りの名前は「美濃竹鼻なまずまつり」といい、竹鼻のまちなかで開催されていたそうです。
コロナ禍の影響で、2020—22年までお祭りは中止となり、昨年から復活しましたが、2017年までは
「ぎふ羽島駅前フェス」としてリニューアルされました。
今回地域の方々にたくさんお話を伺う中で、ナマズにまつわる民俗的な魅力が満載なことに気づきました。
次回は「ぎふ羽島駅前フェス」を通して、岐阜羽島とナマズの結びつきについて、お話したいと思います。
静岡県静岡市清水区にある国道1号線西久保の交差点を南下した秋葉公園の隣には、鹿島神社が鎮座しています。
要石は、本殿の裏山に祀られていました。
祭神は武甕槌命で、要石の由来碑には「要石の根底深く図り知れず」とあることから、
勧誘年は不明ですが、常陸国一宮「鹿島神宮」にみる要石の影響が見てとれます。
鹿島の要石信仰というのは、“日本の地中に大鯰が横たわっており、
首と尾が一致する地点を鹿島神が要石で貫き止めた”というもので、この信仰が近世期以降、民衆に根付いています。。
一方で、「石工がこれを割ろうとした時 石の穴から血が走り出したので、それ以来連縄を張り神石として崇拝されている。」
とあり、今でも石工の「のみ」の穴跡が残っていると記されていました(大内敏雄敬書)。。
それらしき跡は目視できましたが、どの部分なのかご興味のある方は、ぜひ訪れてみてくださいね。
初代歌川国輝画の「かわりけん」や「さてハしんしうぜん光寺」は、弘化4年に発生した長野県善光寺地震を扱った錦絵(浮世絵)です。
北信地方を襲った地震(長野盆地の西側で発生)ですので、地震鯰を叱るのは鹿島大明神ではなく、善光寺の阿弥陀如来が描かれています。
また、善光寺から南に位置する武高國神社には、この地震にちなみ要石が祀られていますが、それぞれの地域に鯰の民話はみられません。
一方で中心部諏訪盆地内に広がる諏訪湖には、古くから語り継がれる鯰の説話がみられます。
そこには、人をみれば飛びかかり食い殺してしまう怪物鯰が登場します。以下概要です。
諏訪湖の水神淵に住む大なまずが人々を一口に食い殺していたので恐れられていた。この話を聞いた龍神さまは、家来の音坊(おとぼう)に退治するよう命令した。大なまずと激しく血だらけになりつかみあった音坊は、気絶した大なまずの首を縄で縛り上げ、花岡の坂をのぼっていった。すると途中で、大なまずが「音坊さようなら」と言い、はねながら湖に潜ってしまった。それ以来、その坂のことを鯰坂と呼ぶようになった。
この“鯰坂”は、岡谷駅から天竜川を渡り、諏訪湖手前の岡谷市道106号線を上った場所に位置しています(写真①)
(水神淵は、鯰坂から海外田に出たところにあり、諏訪湖のうちでも一番水底の深いと言われています)。
複数出版されているこの説話ですが、最も古いのは『信濃傳設集』(1943年出版)で、ほとんどが怪物鯰として伝承されています。
ただそのなかに、後日談が語られている内容がありました(※1)。
ある日、花岡の隣にある美しい音を放つ小坂観音の釣鐘が外れ転がり落ちて諏訪湖に沈んでしまった。翌朝、村人が舟を出し、何度も鐘を引き上げるが滑り落ちてしまうが、そのかわりに大なまずが現れなくなった。それは小坂観音の釣 鐘(写真②)が押さえているのだと、人々は観音様に感謝し、同じ釣鐘を納めた。すると、時々湖の中から、鐘をならす音がするようになった。この鐘がひびくと、のちに、国に大きな関わったことがおきた(『諏訪のでんせつ』)。
つまり、音坊(おとぼう)が退治しようとした鯰は、その後、霊力の宿る水神鯰となったことを伝えているのですね。
『本朝食艦』(元禄10年刊)には、鯰が、淀川と琵琶湖、信州の諏訪湖でとれることが記載されています。
このような古い時代から、諏訪湖に鯰の存在が確認されていたということから、地域にも馴染んでいたはずです。
それにも関わらず、ほかの”鯰の民話”が少ないことを考えますと、とても貴重な伝承といえると思います。
今回は、珍しい民話とともに長野県の鯰伝承をまとめました。
(※1)
『信濃傳設集』1943年『信州の伝説』1970年『諏訪のでんせつ』1976年『諏訪盆地の民話——信濃の民話10』1980 年
『信州の民話伝説集成 南信編』2005年『「信州の名著復刊シリーズ」第一期 信濃伝説集』2008年
ナマズの登場する昔話には、実在しない淵や沼を舞台にした物語が多くみられます。
ですが、その後の調査で”実在していた”とわかることもあり、
今回の"福井県のむかしばなし"はまさにその事例でした。
内容は、九頭龍川中流のかまぶちに住むナマズが、村人たちに生け捕られ、売られに行く途中、
水のなかから出てきた白蛇の威嚇により助かる、という物語ですが、これまで「かまぶち」が実在するのか、
架空の場所なのか検討がつきませんでした。
ですが、時間をかけて辿ったところ、やっと場所の詳細を知ることができたのです。
というのも、このむかしばなしの参考書籍「白蛇となまず」(『上志比のむかしばなし』)を取り寄せたところ、
序章には、”上志比の方達の協力を得て、当時上志比中学校の生徒たちが、丁寧につくりあげた”と記載されていました。
つまり、確実に「かまぶち」が実在していたということです。
幸いなことに、生徒が作成したと思われる丁寧な地図も添付されていました。
また、地域の方に位置を教えていただき、訪れることもできました。
ちなみに、そこからほど近い坂井市丸岡町や足羽山の麓の地域には、鯰絵馬奉納の伝承地があります。
これまでにご紹介した虚空蔵寺(なまず堂)、川上白山神社、丸岡白山神社(なまず絵馬堂)の事例です。
この地域には、ナマズが虚空蔵菩薩の使者「鰻」に代わる生き物
であるという民間信仰が浸透し、古来ナマズには神性が与えられていました。
丸岡白山神社には50枚をも超える鯰絵馬が所狭しと掲げられ、古くは文政12年の鯰絵馬も保存されています。
もしかすると当時上志比の地域にも、ナマズを捕ることを禁忌とする風習があったのかもしれません。
そもそも、『上志比のむかしばなし』(1976年)では、タイトルが「白蛇となまず」ですが、『日本昔話通観』(1986年)には、
「もの言う魚」という題目として収録されています。
参照した「白蛇となまず」を、水魚を殺生してはいけないという説話として捉え、まとめられたのであれば、
その可能性は高いように感じられます。
今回は、鯰尾形兜と祭りについてのお話です。
堀直竒の着用した「銀箔押鯰尾形兜」は、ほぼ直上に長く伸ばした(鯰の尾鰭部分を張掛けた)形体をしています。
『會津陣物語』には、直寄の軍装が黒革の具足と銀の鯰尾形兜であったと記されていますが、
現在の色は全体的に黒みを帯びていて落ち着いた雰囲気を醸し出しています。
『甲冑武具研究』によると製作当初は「総体に黒漆を塗り、その上から銀箔を置いた仕上げとなっている」
とありますから、その着用により直竒の威勢が際立ち、攻撃する標的になり得る存在であったことは明らかです。
堀直竒は、豊臣秀吉の小姓として頭角を現し、22歳にして従五位下丹後守に叙任しました。
そして、秀吉の死後は徳川家康に従い、関ヶ原の戦いの頃、
上杉遺民一揆平定に活躍し大阪の陣で手柄を立てたことで越後村十万石の藩主となりました。
鯰尾形兜は、主に秀吉周辺の武将やその子息が着用(所持)していますので、
鯰尾形兜を通して生まれた忠誠心は相当なものだったと思われます。
その後村上城主となった直竒は、城郭と城下町の構築を大々的に行いました。
その際、総鎮守のお宮を城から見下しては恐れ多いとして、現在の場所に社殿を造営し、
御遷宮したのを機(寛永10年)に村上大祭が始まったのです。
神輿の御巡行には、19台の華麗な屋台を供奉します。
十五番のおしゃぎり(祭り屋台)の乗せ物は『瓢鮎図』です。
直竒は、武将としての特権意識が強く「侍こそが地域の指導者であり、衆庶の上
にたつ者でなければならない(『村上藩』)。」と述べたといいます。
おそらくは、どこかに鯰、もしくはそれを示す何かが施してあるのではないかと気になりました。
今年七月、村上大祭は三年ぶりに開催されました。
おしゃぎり(祭り屋台)は各町ごとに趣向が違います。
しかし、十五番庄内町のおしゃぎりの乗せ物『瓢鮎図』には、どこにもなまずが見当たりません。
地域の方にうかがったところ、このおしゃぎりは「不可能に可能を探る」という願いを込めて作られたそうで、
あくまで「瓢箪」をイメージしており、そもそも、鯰そのも
のが、村上の地域と由縁がないとのことでした。見送り(屋台の背後にさげる掛け軸)は波うさぎでした。
確かに『會津陣物語』は、会津で起こっていた合戦の顛末を記したもので、
江戸幕府の老中・酒井讃岐守忠勝が、配下の杉原親清に命じて、
会津合戦の古い伝承を集めさせた記録であり、それを国枝清軒が延宝八年、1680年に校訂を加えたものです。
『會津陣物語』にみる関が原の合戦の時期からある程度経過していますの
で、そこに厳密な写実性を求めることは難しいのかもしれません。
また、新潟県には、鯰汁を食べたという民話や地震にちなんだ俗信が三件(2022年現在)あるのみで、
いずれも1970−80年代に出版された書籍です。
その頃、地域に鯰が存在していたことは読み取れますが、どの程度人々に馴染んでいたのかは曖昧です。
一方で村上大祭を梅雨の最中に祭礼を行うのは、神の呪力により適度な水の恵みを求め、
豊作を祈願することにあるといいます。
おしゃぎりにある「瓢箪」に入った水は、火の消化に使用することから災害対策としても兼ねているともうかがいました。
つまり、堀直竒の村上城主となったのを期に開催されたとはいえ、鯰尾形兜を通した信仰と、
民間がつくりあげたおしゃぎりとは別のものであると解釈しましたが、
水神信仰に災害防止を祈念する様相は、他地域の鯰にまつわる祭りとも通じるものがあるように感じられました。
今回は、岐阜県における鯰の示すもの、についてのお話です。
(前回の、愛知県大口町の昔話「ナマズの清水」から繋がる
内容でもあるのでタイトルを続編としました)
まず、「ナマズの清水」にみる「清水」は、”扇状地にみられる伏流水”のことを表していたのですが、
現在は埋め立てられています。地図(位置図をご覧ください)から推察すると、この伏流水
は木曽川から形成された扇状地によるものと思われ、
さらに木曽川を北上すると濃尾平野には木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)が流れています。
岐阜県南部の揖斐川沿岸地域には鯰伝承が集中していることから、
当時この地域にはナマズが棲息していたことは明らかで、ナマズにちなんだ祭り伝承が複数在ることにも納得です。
今までにご紹介した鯰伝承では、大垣祭りは瓢鮎図、綾野まつりは五穀豊穣、
片山八幡神社の祭礼は雨乞いと由来はそれぞれでした。
ここでお気づきかもしれませんが、そもそも岐阜県には、地震にまつわる鯰伝承がありません。
以前「鯰尾」地域在住の方にうかがったお話によると、この「鯰尾」の由来は、
土地改良前にこの地域の水田には堀割(水路)が各所にあり、鯰の棲息に適した土地柄であることや、
この地域には昔から地震がないことからその名前がついたのではないかとのことでした。
岐阜県には、愛知県同様、ナマズにまつわる民話がみられません。
また、伝説(伝承)があっても、地震ではなく水にちなんだ伝承が多いのはそのせいかもしれません。
岐阜県には、皮膚病祈願の鯰絵馬信仰や雨乞い祈願による鯰の神性がみられる一方で、
鯰料理店や「肉を食べると利尿に効能がある」(『日本俗信辞典』)といった食の俗信があるなど、
鯰の示すものは様々な形として混在しているのが印象的です。
ですが、明治24(1891)年の岐阜県美濃地方西部を震源として発生した濃尾地震時には、
愛知県、岐阜県にちなんだ浮世絵が出回ったことがあるのです。「愛知県岐阜県震災義捐金一覧表」というのですが、
そこには「地震」をイメージした鯰が描かれています。
濃尾地震は、日本の内陸で発生する最大級の地震であることから、
この「愛知県岐阜県震災義捐金一覧表」は、安政2年の江戸大地震時に流行した鯰絵による影響が大きいとも言われています。
図版には各地から寄せられた義援金の施主と義援高が表されています。
当時義援金募集は、新聞社の事業として取り組まれるようになり、義援者名、住所、職業、
義援金高を紙面に掲載するという風潮は新聞だけでなく地方紙にもみられたといいます。
このように図版上段には義援者が競い合う形で描かれ、下段には首引きをしている
鯰、腕比べ、にらめっこ、拳遊びなど、義援金を競う様相がコミカルに描かれているなかで、
明らかにナマズの一般的イメージは「地震」であることが示されています。
地図上には、主に江戸時代の伝承が集まっています(お店は古くは大正時代創業ですが)。
鯰絵馬の祈願内容は皮膚病ですし、地震発生時に登場した「愛知県岐阜県震災義捐金一覧表」とは、
時期も鯰の示すものも大きく違います。
鯰の民俗は、西日本から東日本に、鯰の生息に付随して北上しています。
江戸で庶民にナマズが地震とという概念が周知されたのは江戸時代中期以降です。
水郷の性質をもつ岐阜県と愛知県では、それぞれ独自のナマズ信仰や文化が混在しているので、
地震が珍しかったから報道絵としての注目度が高く話題になりやすかったのはあると思います。
また、報道文化がナマズと地震の概念を作り上げる一端を担ったとも言い換えられるのかもしれません。
今回は、幕末から明治時代(大正時代)における中部・東海地方において鯰の示すものが複数あるという
ことをお話しさせていただきました。
『大口町のむかしばなし』には「ナマズの清水」という昔話が収録されています。
タイトルは「ナマズの清水(しみず)」と読むのですが、ずっと「しみず」が何を示しているのか不明でした。
下記は「ナマズの清水」から一部引用したものです。
一年生の清ちゃんにお母さんが自分の住む町の大口町にま
つわる昔話をしています。そのなかで清ちゃんは聞きまし
た。
「そういえば、大口町には、むかし、大きなナマズがた
くさんいたって、言ってたじゃない?そして、森からわ
き出る水がつめたいので、夏には、スイカを冷やすの
にちょうどよかったって言うじゃない?ね、おかあさ
ん。そのナマズの清水はどうなったんだろう。」
お母さんはこう答えました。
「ナマズの清水は、百年ほど前にうめられて、田んぼに
なったそうだけど、スイカの清水は、つい十年ほど前
まではあったそうよ。」
(「ナマズの清水」『大口町のむかしばなし』大口町教育委員会2005年)
大口町は、愛知県丹羽郡にある町です。おそらく「ナマズの清水」は「場所」のことを指すのだろうと
思いましたが「うめられた」後でも「スイカの清水」はあった、となると、
この話が鯰の何をイメージして作成されたのか見当もきませんでした。
しばらく保留にしていたのですがご縁あってやっと「ナマズの清水」をご存知の方にお話をうかがうことができました。
結論からいえば「清水」は「扇状地にみられる伏流水」のことでした。
かつては、愛知県の大口町東久(清水地区)柏森駅近くの場所にあったそうです。
現在では地域でも知らない方が多いとか(貴重なお話を伺えて大変有り難かったです)。
一方で、愛知県における鯰の民俗はどうかというと、知多町地域に残る鯰絵馬については、
歴史の古さが一二を争います(図録には享保20年、宝暦3年、文政11年作成の鯰絵馬が掲載されています)。
ですが、そのほかの事例がほとんどみられません。
愛知県の水郷地帯には、なまず料理店や食する慣習の事例があるのですが僅少です。
『日本俗信辞典』1982年には、
「ナマズが騒ぐと地震が起きる
ナマズが尾を振ると地震になる
民間療法にナマズを食べる人は乳がよく出る
癜(なまず)をおとすため、ナマズの腹で癜をこす
ると治る」
と、ありますが、愛知県と記しているだけで時代や地域までは不明です。
鯰を食するかどうかは信仰の有無にもよりますから、もう少し事例数が集まれば、傾向がつかめるかもしれません。
そのなかで、大口町のナマズは、河川周辺の地下水のような「場所」に、日常のなかで「生息していた」ことがうかがえます。
「清水」の規模や風情は不明ですが、スイカを冷やすくらいですから、
透明度の高い「清水」と推測されます。鯰が示すものは日常の一場面かもしれません。
ちなみに、愛知県に関しては、実見調査が行うことができず写真がありません。
ですので、今回は、ざっくりとした位置図を作りました。
鯰の伝承に統一感がありませんが、なんとなくでもご覧いただければうれしいです。
また進展がありましたら追記させていただきたいと思います。
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