熊本県を4つに区分した一つである阿蘇地方に位置する阿蘇山。
現在も断続的に活動を続けている中岳火口は、北を阿蘇谷、南を南郷谷といい、阿蘇谷には黒川、
南郷谷には白川が流れ、火口瀬の立野で合流して白川となります。この阿蘇山を中心とした地域には、
阿蘇神社の祭神・健磐龍命が阿蘇の開拓を行い、ナマズの霊を国造神社に祀った開拓譚である“阿蘇神話”が語り継がれています。
この神話に登場する国造神社境内にはナマズの霊を祀った「鯰宮」が建立されているのですが、
皮膚病平癒に貢献のある神様のため、この地域では国造神社拝殿には鯰絵馬が掛けられるなどの
信仰もあります(写真1)(写真2)(写真3)。
鯰絵馬の多くは皮膚病祈願時、もしくは報謝として奉納されます。
皮膚病は、主に癜病(なまずびょう)を示しますが、皮膚に表れる症状が、ナマズの腹に似た斑点があることがその由来とされています。
色素の欠乏により白色の斑紋を生ずる白斑を「白ナマズ」とも呼ばれています。
私がこれまで訪れた先では、阿蘇地方より熊本地方(人吉や上益城地域)に多くの鯰絵馬を確認しました。
一方、かつて阿蘇山麓およびその周辺では、ヨナに苦しめられていたことを知りました。
ヨナとは、阿蘇火山灰のことで、阿蘇周辺で呼ばれる噴火降灰のことを示します。
たとえば、北阿蘇、阿蘇市乙姫には、天然痘(ほうそう)の神様として名高い乙姫神社が鎮座していますが、
地元の人に話をうかがいますと、子供のころからヨナ歯については知っていたそうで、
実際ヨナ歯を患った友人もいたといいます。
乙姫地域に限らず、その地下水には、フッ素が含まれている火山ガスがの影響で、
むかしは歯が黒くなると地元では言われていたそうです(写真4)。
明治から昭和初期生まれの方の聞き取りが行われた調査記録では、ヨナによる被害が、
牛馬、作物、人間と広域にその影響を及ぼしていたことが記されています。
現代の熊本県は、大規模な水田開発を行った加藤清正により、白川中流域の水が浸透しやすい土壌となり、
世界に誇る地下水システムが成り立っていますから、ヨナと水と鯰絵馬との直接的な因果関係は不明です。
また、実際に私が訪れた先では、鯰絵馬に託される皮膚病の症状は「癜病」だけではありませんでした。
頭皮に関わる悩み、疥やおでき、瘤、アトピー性皮膚炎などの祈願も見受けられます。
噴火による二次被害(農作物の不作など)による栄養不良による影響も考えられるのではないかとも考えました。
そもそも、鯰絵馬の形体は小絵馬です。小絵馬には、心に秘めた個人の切実な願いを描くという特徴があります。
ですので、鯰絵馬祈願に対する皮膚病一つとってみてもその祈願内容は千差万別だと思うからです。
当時の人びとが原因が不明である癜病を常に意識していたというより、皮膚に関する「正常ではない症状」のイメージが、
すでにナマズを想起させた、と考えた方が自然ではないでしょうか。
医療技術の発達するなかで、近世から信仰された皮膚病平癒の鯰絵馬奉納は、近代には廃れてはじめました。
ですが現在も、鯰絵馬の慣習や霊水伝承が継続されている地域があるということはナマズが神格化されてきたからに他なりません。
課題は多く残されていますが、水の神格化と鯰絵馬の因果関係がないと否定することもできないと考えられます。
村崎真智子『阿蘇神社祭祀の研究』 法政大学出版局 1993年
半田隆夫『神神と鯰』自家版1996年
野本寛一著『自然災害と民俗』森話社2013年
萩生田憲昭「鯰絵馬と癜病との関わり」『ナマズの博覧誌』誠文堂新光社2016年
「熊本市観光ガイド くま本」
熊本県阿蘇カルデラの南部に位置する南阿蘇村は、日本名水百選に選定されるほど湧水が豊富な地域です。
たとえば、毎分およそ60トンの湧水量を誇る白川水源では、
水温は年間を通して約14度と一定していて夏はより冷たく、
そして冬はより温かく感じることができます。(『白水水源』)(写真①)
白川水源に隣接した中松地域には、
塩井神社境内にある塩井社水源もあります。湧水量は毎分5トン。
湧水の色は、かつて水源池を神聖視し「お汐(塩)井様」と崇められていたことにも頷けるほど
美しいエメラルドブルーでした(写真②)。
『長陽村史』によると、湧水のことを古来「妙見さん」、「塩井社」、「吉水社」、「竜神さん」など
が付けられていたとあるのですが、高森町に鎮座する高森阿蘇神社にも「塩井社」があります。
この神社は、阿蘇神社の祭神・健磐龍命が行った、ナマズの霊を祀る開拓神話にも登場しています。
阿蘇大明神が湖水であった火口湖を乾かされた後、自身の宮居を定めるため中央山上から南北に向かい矢を
放ったときの神矢を祀った矢村社(矢が落ちた所)なのですね(写真②)(※1)。
今回「塩井社」は関係者の人しかいけない神域にあるため、拝見することは叶いませんでしたが、
神社関係者にお話を伺うことができました。「塩井社」は大事な水の神様なので、夏祭りや正月には、
語弊やお供えを持って神事をしているそうです。
むかし(昭和のはじめ30年代)は、農家の人たちがお米を一升持って、神官さんに祝詞をあげてもらっていたとか。
その際は、地域の方々が草を刈り、しめ縄も張り替えて、2日がかりで掃除をし語弊なども持参していたそうです。(写真③)
ちなみに、同じ地域に鎮座する祖母神社にも、古来水の湧く場所を示す石碑「御塩井」が設置されていました(写真④)。
ナマズにちなんだ伝承や慣習について確認はできませんでしたが、
ここは、初代阿蘇大宮(惟人命)の祖母にあたる祖母大明神(阿蘇都媛)が祭神。
阿蘇都媛は、阿蘇開拓の神様、健磐龍命妃です。
一方、昭和初期に出版された『阿蘇郡の雨乞ひ』には、“高森町阿蘇神社の塩井水に御神体をつけて祈願を込めると霊験たちまちに至る”と雨乞い儀礼の記載があります。
水が豊富な地域であるのに雨乞いの必要があったのかと疑問に思いました。
先の神社関係者および市役所でもお話を伺いましたが、高森町では、
雨乞いが行われていたことは聞いたことがないということでした。
そもそも、阿蘇山より北の地域に比べ、南阿蘇地域では「阿蘇神話のナマズ」と親和性があるようにはみえず、
ナマズ絵馬も見当たりません。水の神格化と阿蘇神話とナマズ絵馬。その因果関係は謎のままです。
つづきます。
前回は「霊水とナマズが関わる10の伝承」を取り上げました。
ナマズの登場する説話には、ほとんどの場合「水」が関係しています。
水神のナマズが棲む水が「霊水」だからなのか、「霊水」に棲むナマズだから水神なのか。
「水」は、作物を育てる上で水は欠かせません。
水環境が整備されていない時代、たとえば旱魃を恐れる人々にとり、ナマズの存在はまさに恵の表象でした。
そこで今回は、熊本県阿蘇地方の「水」とナマズの関係について考えました。
阿蘇地方のナマズにまつわる伝承には、阿蘇神話とナマズ絵馬の伝承が残ります。
ですが、地域によってその浸透にも違いがあるようです。
まず、“阿蘇神話”は、阿蘇神社の祭神・健磐龍命が、阿蘇の開拓を行い、
ナマズの霊を国造神社に祀った開拓譚のことをいいます(写真1)(写真2)。
阿蘇山を中心とした地域を舞台にした古い伝承で、阿蘇山北にある國造神社境内にある鯰宮には、
阿蘇湖の精であるナマズの霊が祀られています(写真3)。
その一方で、南阿蘇には、鯰絵馬伝承がほとんどみられません。
そもそも阿蘇中岳周辺地域は湿地帯です。開発が進んだことにより一部で枯渇や湧水量の減少などが見られるものの、
現代における熊本県内には1,300箇所以上の湧水地があるという報告もあるとのこと。
そのような十分に恵まれた環境である熊本県内において、阿蘇地方の「水」の在り方にも違いが
あったのではないかという疑問がわいてくるのです。
阿蘇神話が生まれるということは、この地域において、作物を育てることに対して、
先人の苦労や天災への恐怖が常にあったことを示しています。
ですが、ナマズが存在するということは、作物を潤す恵みの雨が適度に降っている状況があったこと、
もしくは水の環境が整っていたことも示します。
やはり、地域によって浸透に違いがあると思うのです。
また、鯰宮の由来板には、癜風肌(ナマズハダ)についても霊験あらたかであることが記されています。
この地域には、ナマズの絵を描いて神社に奉納する風習があるのですが、
阿蘇神話とナマズ絵馬についての関連性も明確にはなっていません(写真4)。
そこで、まずはナマズ絵馬や伝承の少ない南阿蘇に実際に行ってみる必要があると思いました。
つづきます。
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参考文献
『「阿蘇の文化的景観」保存調査報告書Ⅱ』 阿蘇市教育委員会 教育部 教育課 世界文化遺産推進室 2016年
下野狩りは、農耕のための公式的な狩猟神事です。
源頼朝の富士の巻狩りの手本となるほど古くからおこなわれていました。
阿蘇氏の衰退に伴って断絶しましたが、終焉の時期については諸説あり、1579年〜1582年頃の説が多く語られています。
(一度1871年に再興された以降、現在まで廃絶したまま)下野の巻狩のきっかけは、
鳥や鹿や猪が作物を荒らしてしまうため作物が育たなかったことが原因です。
そして、鯰神への贄のために行われています。ただ、土壌環境が悪かったのは、火山灰による被害が大きかったこともあると思います。
というのも、時代は下って近世になりますが、『肥後國誌』(後藤是山1984)や『阿蘇の伝説』(荒木精之1953)をみると、
地域の人びとの「湖を干す」という意識がとても強く読み取れます。
作物が育たなくなることから、人びととノロウミ(火山灰)との戦いが常に繰り広げていたことが明らかです。
それにも関わらず、中世に行われた下野狩り神事と、近世に作成された阿蘇神話が繋がらない。
まるで関連性がみうけられなません。殺生による罪業觀の強い場面を省いたのかもしれませんが、
近世にみる記録となると、下野狩りについて詳細が掲載されていない、もしくは、“鯰”という文字が記されていないのです。
ただ、阿蘇山周辺地域の開拓にまつわる歴史には、こうした先人の苦労が隠されている。
だからこそ、現在の豊かな作物や水環境が育まれてきたことがわかります。
ところで、当時、下野の巻狩に動員される勢子・狩人は3000人超。
阿蘇一族・神宮等騎馬武者が三箇所の馬場で鏑矢で射た獲物を宮の”鯰”の贄に捧げた大規模な神事です。
いったいどのくらいの広さで行われていたのでしょうか。
今回は、先日訪れた[贄塚]の対局に位置する赤水の馬場を訪れました。
教育委員会の方に教えていただき現地を訪れると、最南端の位置に大きな看板が設置されています(写真①)。G
ooglemap距離測定機能を使用し、贄塚から看板位置までの距離を算出すると、およそ 7.80 kmですから478ヘクタール。
東京ドーム約100個分に相当します(あくまで推定です)。とても大掛かりな神事だったのです。(写真②)(写真③)(写真④)
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資料文献を参照し「阿蘇地方雨乞い伝承地図」(地図A)を作成しました。関係のない記載はありますが、
巻狩の行われていたと推測される範囲には、赤い点線、訪れた場所を赤矢印で示しました。
よろしければ参考にしてください。(贄塚・地図内矢印①)(看板設置場所・地図内矢印②)
参考文献は地図内に掲載
謎というのは、阿蘇山の中岳、阿蘇神社、国造神社が直線上にある理由についてになります。
地域の方はこう言いました。
「国造神社から、中岳(神霊池)まで行くのには、距離がある。だから、その真ん中に阿蘇神社を建てたといわれている」
また、通常の神社の参道は本殿に向かい真っ直ぐに伸びているのですが、阿蘇神社の参道は、神様をお迎えするために、
横参道にしているという説もあるとか。現在も詳しいことは謎なのだそうです。
健磐龍命は火山神ですが、開拓の神でもあり、あとから水神信仰の性格を深め、龍神信仰をも生み出しています。
そもそも、神霊池の異変は、国家的災異の前兆として畏怖されていました。
おそらく、阿蘇地域の土地そのものが、鯰に関わっているので、
かつてはもっと広い範囲にわたり神格化していたような気がします。
今回は、写真と地図を載せました。
(国造神社の鯰宮には太鯰の霊が祀られています)
追記:
柳田快明『中世の阿蘇社と阿蘇氏—謎多き大宮司一族』戎光祥出版2019年には、
“(阿蘇社は)「聖なるライン」上に造営された”とありました。この書籍から伝播された話かもしれません。
下記に引用しますね。
「阿蘇山上の上宮や手野に鎮座する国造神社(阿蘇社の北に位置
することから北宮)の方が古い。阿蘇社は、上宮と国造神社と
を結ぶ、いわゆる「聖なるライン」上に造営された社だといえ
る(柳田2019:10)。」
今回は、”阿蘇神話”の結末「ナマズが手野の北宮神社に祀られた」その後のお話になります。
健磐龍命は、苦心を重ね、自ら率先して田畑を開きました。
ですが、ノロウミの引いたところなので作がよくありません。そのうえ、作物ができても鳥、鹿、猪などが増え、作物を荒らしてしまうのです。
やがて田畑は草原のように生い茂ってしまいました。
そこでミコトは、これらの動物を捕らねばならないと思い立ち、下野一帯の狩りをはじめました。
作物のために、やむをえず獣を殺しましたが、生きものを殺してすまないと、のちに霊祭を行いました。
下野狩りは、中世に行われた、神聖でなおかつ、公式的な狩猟神事でした。
源頼朝の富士の巻狩りの手本となった神事です。
ですが一方で、神話的起源においては、下野狩りは農耕のために行われ、鯰神への贄のために行われたと伝えられ、”贄塚”は、
そのお
まつりの場所といいます(写真⑪)。
ちなみに、数鹿流瀧の由来の一つには、下野狩りのときに、4.5匹の鹿が水飲みに下っていたところ、
この巻狩の勢子の声におどろき、あわてた鹿が水の落口に重なって落ちたことが伝えられています。
ところで、ミコトは弓を射るのが何よりの楽しみだったとか。あるときは往生岳からこの的石に向かって弓を射ったといいます。
鯰にちなんではいませんが載せておきます。
荒木精之『阿蘇の傳説』郷土文化叢書1953年
村崎真智子『阿蘇神社祭祀の研究』法政大学出版局1993年
阿蘇神話の続編です。
健磐龍命は、ナマズの鼻に大きなツルで鼻ぐりを通し結びつけました。
するとナマズは苦しがり、しだいに弱っていきました。(前回はここまで)
ナマズはのたうち回りましたが、それでも動きません。そこで命はナマズを三段に切ってしまいましたすると、
鯰はノロウミとともに落ちていきます。
こうしてノロウミは全て干上がっていったのでした。
その後ミコトは、
地域の人びとに農耕の道を広めはじめました。ところがどうしても本当の米ができません。
天つ神に伺うと、さきほど殺したナマズの祟りだといわれます。なんとあの大ナマズはノロウミ(湖水)の精だったのです。
ミコトは、ナマズの霊を大切にしなければと自ら手野に祀りました(写真⑥)。
こうしてナマズが祀られてからは米が立派に育つようになったのでした。
それ以降、阿蘇神社の氏子たちはナマズを捕ることも食べることも禁じました。
手野の北宮神社(写真⑧)には病気の時にはナマズの絵を描いて願をたてるものがあとをたたなかった(終)。
ちなみに、そのナマズが流れて漂流したところが今の鯰地域(上益城郡大島村鯰)です(写真⑨)。
また、それを拾うとカゴ六荷分あったので今の「六荷」という地名に転化したものだいいます(写真⑩)。
※ノロウミというのは、火山灰がとけた状態のことをいいます。
※健磐龍命の阿蘇開拓話をイメージしたイラストを作成しました。
未完成です。まだ訪れていない地域もあるのですが、神話のなかの鯰はかなり大きいように思います。
参考書籍
「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 43 (熊本県)』角川書店1987年
荒木精之『阿蘇の傳説』郷土文化叢書(第5篇)1953年
今回は前回の続き、阿蘇神話のお話です。
健磐龍命(以下、命)が外輪山の上から阿蘇湖を見下ろす場面からはじまります(写真①)。
命は、一面に広がるノロノロした湖を前に「これを干せば、良い田野になり米ができる」と考えました。
(このノロノロした湖というのは、
火山灰がとけた状態の湖のことをいいます。以下、ノロウミも同様)
そして外輪山の屋根づたいに湖の西の方へ歩き、二度三度蹴 りました。しかし二重になっていたので、
け破ることができません(これが二重の峠といいます。)(写真②)。
次は立野の上を一蹴りしました。すると、穴があいて破れ、ノロウミがすさまじい音をたてながら西に流れはじめました。
その命が蹴破った瀧が、今ある数鹿流瀧です(写真③)。ところが翌日になっても、
湖の手前の半分(手野)のあたりはノロがひきません。よくみると大ナマズが横たわっていたのです。
(ちょうど杵島岳の中腹にはねていたと伝えられています)(写真④)。
困った命は、ナマズの鼻に大きなツルで鼻ぐりを通し(鼻ぐり岩)結びつけました。
するとナマズは苦しがり、のたうち 回りました。そのとき、尾ばちは下野の蛇ノ尾まで届いたといいます(写真⑤)。
そうしているうちにナマズは弱っていきました。(つづく)
ここで、驚くのは火山灰の飛距離です。
「一面に広がるノロウミ」ということは、火山灰が、中岳から直線にしておよそ9km先にある数鹿流瀧まで飛んできたことになります。
2016年4月には、中岳第一火口で小規模な噴火が度々発生しました。
筆者がこの熊本地震後に訪れた時は同年10月でしたが、
中岳火口から国造神社までの直線距離でおよそ12kmあるのにも関わらず、
鯰宮にはうっすらと灰が積もっていたのです(写真⑥)。
阿蘇神話には創作が含まれているものの、このノロウミの存在が、かつてから地域の人々を苦しめていたことがよみとれます。
参考書籍
荒木精之『阿蘇の傳説』郷土文化叢書1953年
今回は、阿蘇地方に位置する阿蘇山のお話です。
阿蘇山は単体の山ではなく、中岳・高岳・根子岳・杵島岳・烏帽子岳の阿蘇五岳を中心とした山々の総称をいいます
(広い意味では外輪山も含みます)。
むかし、阿蘇の人びとは阿蘇山を霊山、火口を神霊池と呼び、噴火があれば、神の怒りとして恐れていました。
さらには、突然、火口に水(湯)がたまることがあることから「神が宿っている」と信仰しました。
やがて聖地と化した阿蘇山には、この月毛の神馬がどこからとなく現はれ、また雲中に姿を消すという話が伝わるようになりました。
その神馬が現われると、日の光を浴びきらきらと光り輝きます。
そして、数多の断崖を難なくとびこえ、いつのまにかその雲中に姿を消すのでした
(健磐龍命は、この神馬に乗って、下野御狩もされたとも言われています)。
一方、『肥後國誌』には、噴火による地雷や噴煙を「龍」と重ねていたことが記載されています。
写真にみえるように、阿蘇中岳火口からは白い噴煙があがっていますよね。
これが、龍にみえたようです。そもそも、神霊池は健磐龍命の神宮とみなされていたので龍のイメージにはぴったりです。
ですが
鯰はどこでしょう?龍と鯰は同じ水神ですが、変容したわけではないのです。
阿蘇には、鯰の登場する説話が多くみられますが、ここでご紹介するのは、
健磐龍命の阿蘇開拓譚、阿蘇神話です。阿蘇神話のなかでは、健磐龍命が外輪山の上から見下ろしています。
すると目の前には、満々たる阿蘇湖が、火山灰のとけた“ノロウミ”となり、銀色に光って見えました。
そこには、湖の精である大きな鯰がいたのです。健磐龍命と鯰の神話はここからはじまります。
湯だまりの様子は、気象庁HPでみることができます。
https://www.data.jma.go.jp/.../Asosan_rovdm/yudamari.html
気象庁HP
参考文献
荒木精之『阿蘇の傳説』郷土文化叢書1953年
佐藤征子『神々と祭の姿』一の宮町1998年
前回、ナマズの浮彫りが施されている欄干について少しお伝えしたのですが今回は、欄干についてのお話です。
その場所は、福岡市早良区にあります。金屑川に架かる賀茂橋の欄干に「ナマズ」が施されているのですね。
すぐそばに鎮座する賀茂神社には、鯰絵馬が掛けられていま
す。
ここでは、賀茂神社やこの地域に伝わる、鯰にまつわる伝説(概要)を改めて二つご紹介します。
まず1つめ。
昔、この金屑川には白ナマズが多くて、村人はよく食べていた。ところがある
年疫痢がはやり、村人は困りはてた。とうとう、京都の賀茂神社へお参りをす
ると「お前たちの 村の川に住んでいるナマズが助けてくれるであろう」とのお
告げがあった。急いで帰ってナマズに頼むと「これからナマズを食べないこ
と。そして川を美しくすること」を条件に村人の頼みをきいてくれた。以来村人
は今日もなおナマズは食べないし、ナマズを神社のお使いとして神社を建て、
賀茂にちなんで賀茂神社と命名した(『福岡県百科事典』)。
2つめ。
享保17〜18年(1732〜3年)、西日本一帯を大飢饉が襲った時に約32万人のう
ち、飢饉で11万人が餓死した。3、4年後、早良区賀茂の賀茂神社氏子3人が、
京都の賀茂御祖神社に祈願に行くと、神主に「賀茂神社の使いは鯰だから、帰
ったら、川に入り、二度と災難が起きないためには、どうすればよいか、お尋
ねなさい」と言われ三人は金屑川に入りお願いをした。すると一人の夢枕に鯰
が現れ、鯰の殺生、捕食を禁じ、川の美化に努める告げた。(『神神と鯰』・
(『免の里をたずねて』1996年)。)
(※京都の賀茂神社とは直接的な関係はないようです)
『神神と鯰』(半田隆夫著 1996年)によると、この地域では、享保5年から不順な天候が続き、特に享保17年は長雨で、
春ものの作物が壊滅状態となったといいます。
この間、幕府からの救援米が福岡藩に届けられたのですが、食料不足による栄養失調と疫病蔓延、
極寒の異常気象による凍死が跡を絶たず、さらに翌18年の夏も、近畿以西の各地に虫害と疫病が流行し、多くの死者を出しました。
つまり、これらの伝説は、疫病や自然災害を元に作られ、地域の人々が「世直し鯰」として、
子々孫々語り継いだ貴重な伝承として語り継がれているのですね。
賀茂神社には、皮膚病祈願の鯰絵馬奉納が行われていたことを記す古文書(文政4年)が残されています(『神神と鯰』)。
皮膚病は癜肌とも言われていますが、その原因の解明は未だなされていません。
ですが、当時飢饉による栄養不良の事実と無関係とはいえない気がしています。
鯰のシンボル化の普及は地域の活性化にも繋がります。
このように賀茂橋の欄干や、七隈線賀茂駅のホーム案内板に描かれた鯰は地域一体のシンボルになっています。
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