鯰の民俗事典

お問合わせ

鯰絵

<作者 artist>

安政江戸地震の発生前後を中心に、主に歌川派の絵師たちが描いた「鯰」にまつわる錦絵の作例を収集、検証し、 特徴が出やすい口元の描写に焦点を当てています。
その特徴が、絵師によって異なることを確認し、自身の手法や描き癖を分析していきたいと思います。

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【鯰の描写と制作意図】

鯰絵の作者像については、未だ解明されていない謎が多く残っています。 従来の研究によって、すでに三代豊国、国芳ら人気絵師たちが鯰絵に関与した可能性が指摘されていますが、 歌川派の絵師がどのように鯰絵制作に関わったかという点や、鯰絵に関する詳細な描法の研究は積極的に行われてはいません。

一般的に描き手には、自身の手法や描き癖というものが少なからずあると考えられています。 これまでにもこちらでお話したように、私は、歌川派の絵師たちが描いた「鯰」にまつわる錦絵の作例を収集・検証し、 特徴が出やすい口元やそれ以外の髭や頭などの描写に焦点を当てました(※1)。
そこで今回も、鯰の描写と絵師の制作意図に考えてみたいと思います。

まず、国内鯰絵所蔵24機関の鯰絵のなかから抽出した同じ型の描法は下記の三題目になります(※2)。

「八百万神御守護末代地震降伏之図」 「大合戦図」 「五子十童図」

この鯰絵3点の共通した点は、①目は黒目丸い・線無、②歯は縦線、③髭は細・長短、④手足は擬人化、⑤鼻の穴は有・無、⑥頭部は丸い、とい う6つがあげられます。どれも愛らしい表情が特徴的です。 「八百万神御守護末代地震降伏之図」は、留守を守る恵比寿を介して、江戸地震の鯰が、鹿島大神宮や江戸の諸神に謝罪し、 今後は暴れないと証文に捺印している構図です。
「大合戦図」は、鹿島大明神の指示のもと、町人や遊女たちと、地震鯰が争っている構図です。 「五子十童図」は、ほか2つのように構図や趣向も違い、地震被害の状況を表してはいません。
これは、歌川貞景の作品「五子十童図」とほぼ同じ構図で描かれたものです。 貞景は、初代歌川国貞の門人であり、美人画の作品や摺物、合巻本の挿絵を手がけた絵師です。 貞景画の「五子十童図」は、五人分の頭で十人の子供を数える、五頭十体図と呼ばれるだまし絵の一種ですが、 鯰絵の「五子十童図」においても、子供の顔を鯰に置き換えていること以外は、構図はもちろん、特徴的である指先の爪の描写など、 貞景作品と極めて類似しています。

一方で、鯰絵の「五子十童図」は、描かれた時期に違和感を覚えます。というのは、鯰の頭上に「地志ん」と表記しているからです。 「地志ん」は「地震」を表しています。例えば『山海里』(1857)にある「大念魚江戸大火ぢしんくどき」には、 鯰をかば焼きにしている江戸職人の画の上に「ぢ志ん」の文字がみられま すし、それはそれでいいのですが、鯰絵には、「ぢ志ん」ではなく、「地震」「ぢしん」「ちしん」「地しん」のうちの どれかが記されているのです。
また、国内鯰絵所蔵機関調査において「五子十童図」は、この1枚の確認のみでしたから多数制作されていたのかも不明です。 つまり、書かれた文字や構図の内容から考えると、鯰絵の流行した安政2年10月頃に作成されたものではないように思います。

さらに、瓢箪を強調している点が気になります。 「五子十童図」のなかで顔だけ鯰になっている子供は、瓢箪を手に持っています。 鯰の衣類の模様は瓢箪柄で、頭上に書かれた「地志んの子」とあります。 つまり、この構図においては、被害状況よりも「地震を起こした鯰を瓢箪で押さえる」ことを強調していると感じられます。
前回お話したように、この頃の江戸において、西の「瓢箪と鯰」は、「瓢鮎図」と大津絵のイメージと、地震のイメージが混在しています。 大津絵は、江戸時代中期から後期にかけて歌舞伎や浮世絵によって江戸でも話題となりましたから、 歌川派の絵師が好んで瓢箪を描いていたことは自然であると思われます。
つまり、「五子十童図」の作者については、断定することはできませんが、同一人物の可能性が高いように思われます。 少なくとも、「八百万神御守護末代地震降伏之図」「大合戦図」同様、貞景に近しい人物の関与は考えられます。

追記:
「八百万神御守護末代地震降伏之図」の左上には「瓢箪にサムハラ」が描かれていています。 サムハラ文字は地震除けのご利益があるとされており、この鯰絵そのものが当時は、護符として売れていたように考えられます。 少なくとも作者は、地震を押さえる鯰と地震避けの瓢箪という双方の霊力を強調したかったのだと思います。 (「八百万神御守護末代地震降伏之図」「大合戦図」の鯰の衣類の模様は瓢箪柄です)
「五子十童図」歌川貞景
------------------------------------------------------------------------------------ ※ 1[分類方法]
国内鯰絵所蔵24機関の調査で確認した230種類の鯰絵のうち、
⑴「実物に近く描かれたナマズ」35種類、と⑵「擬人化され たナマズ」115種類に分ける。
⑵「擬人化されたナマズ」のなかで、ナマズの様式(①目、 ②歯、③髭、④手足、⑤鼻、⑥頭)を、28種類の型に区分。
(ナマズが描かれていない鯰絵や参考資料含 2014年調)
(※2) 上記の考察は、私が、第22回 国際浮世絵学会 秋季大会2017年 にて発表した内容を取り入れています(「鯰絵の作者像についての考察」)。

【ナマズを描いた人③】

鯰絵は、安政江戸地震時に無届で出版された錦絵のため、版元名や絵師名は明記されていません。 ですが、これまでには、三代豊国や歌川派の絵師の関与が指摘されています。
なかでも、歌川国芳一門の関わりが強く主張されているのですが、その理由は、 安政二年以前に人気を得た国芳の浮世絵から、構図を模倣しているものが鯰絵には多くみられるからなのですね。
といっても、この時期、国芳は「なまず」の絵を、それほど描いてはいません(3,4枚でした)。 ですので、国芳の弟子か、近しい絵師が「真似た」という捉え方をした方が自然かもしれません。

そこで今回は、その国芳画を真似た絵師が「実は鯰を見たことがなかった」ことを検証した、というお話です。
(考察ですのでどうかご容赦ください)。

まず、鯰絵「大一座二日のよなをし」には、腕組みをしたゴツゴツした頭の鯰がみえますよね。 この鯰、面白いことに、国芳の描いた「龍宮遊さかなげいづくし」に描かれた「あんこう」に類似した様式をしているのです。
このゴツゴツした頭の鯰は珍しく、鯰絵にみる様式(型)のなかでは「大一座二日のよなをし」1つしか該当しませんでした。
では「龍宮遊さかなげいづくし」に描かれた鯰はどうかといいますと、この鯰(タコの前に腕を組んで座っている鯰)の様式

 ヒレに2、3本のシワ、
 黒目が小さく丸い(縁線あり)、
 ヒゲが細くて短い、
 頭部が楕円(口先が突き出している)

  は、鯰絵のなかでは四種類に該当しました。
(「万歳楽」「鯰筆を震」「鯰大尽の遊び」「傾城あだなの焚たき」)

一方で「大一座二日のよなをし」に描かれた数匹の鯰に関しては、目がハッキリしておらず、 口先が尖っていて、なにか不気味すぎませんか。そして、あんこうにもみえるゴツゴツした大鯰。 ここでも鯰の特徴を捉えていないのです。

国芳は、多種類の魚を描き分ける技量を持つ絵師ですし、すでに写実的な鯰を描いています。
(「なまづ」(江戸時代後期)があります)
これは極めて写実的な絵です。
ほかは、戯画の類ですが、鯰の様式には共通点がありません。 (「猫の当字(なまづ)」、「なまずひゃうたん金玉」、「流行   たこくらべ」)

つまり、「大一座二日のよなをし」を描いた絵師は、おそらく鯰を知らないか、 鯰を観察して描いていないのだろうと考えられます。

※「龍宮遊さかなげいづくし」の画像がご用意することができま  せんでした(他の画像についても申し訳ありません)。

【ナマズを描いた人②】

今回は、「鯰絵以外に描かれたナマズ」が、江戸時代の百科事典や博物画集にはどのように描かれていたのか、というお話です。
これまでにご紹介した鯰絵に描かれたナマズのように、近世に描かれた「鯰絵以外に描かれたナマズ」画にも、 それぞれに特徴がみられます。

まず、図入り百科事典「頭書増補訓蒙図彙」(1789年)①に描かれたナマズは、扁平な頭部に、 鱗がなく、ヒゲが4本、目が特徴的で大きな口が描かれています。 そして、魚介類の博物画集「梅園魚品図正」(1835年)②に描かれたナマズも、 細い口ヒゲ2本、小さな丸い目、大きな口が描かれています。 どちらも、書籍の性質上「実物の鯰の生体」をよく表しているのですが、 ただ、この2つのナマズ画、少し違和感があるような気がしませんか。

たとえば、「頭書増補訓蒙図彙」の「鮧」の下に描かれているナマズの形体は、ヒゲの長さがアンバランスです。 下顎のヒゲに対して上顎に描かれたヒゲが長すぎますよね。
そもそも、ここに描かれたナマズには、実際には存在しない脂鰭のような鰭が付いていて、日本産のナマズにはないのだそうです。 そもそも、このナマズについては、実物を直接見て描いたもので はないという指摘もあります。
一方、「梅園魚品図正」の「鮧魚」では、実物を観察して描いたものと言われていますが、 私には、どうしても、背ビレが強調されていて、実物より少しだけ誇張されているようにみえてしまいます。 また、このナマズには斑があり、名前には「ゴマナマツ」と書かれています。 これはイワトコナマズの特徴をよく表しているそうですが、 同じゴマナマズでも③『湖中産物図證』(文化11年成立と される)に描かれたナマズのように膨らみのある形体の方が、ナマズの特徴を示しているように見えますよね。

「和漢三才図会」(1715年後印)④にも、「鮎」と書いて「なまづ」と記されています。 ここでは、ナマズのヒゲが長すぎて、形体もアンバランスな感じですよね。 つまり、微妙にですが、それぞれナマズの形体に統一感がないという印象があるのですよね。

ちなみに、ナマズの漢字が「鯰」ではなく「鮧」や「鮧魚」「鮎」と書かれていることに疑問を持たれた方もいらっしゃると思います。 ナマズの名称に関する来歴は、下記のようにたく さんあるのです。

鮎、鯷魚、□魚、鮟、魸、□、魚(へん)行、鰋、□、鱧、癜、鯷、魚(へん)宅、 鯷、□、鮧、鮷、(鰋の旧字)、魚(へん)來、□、鱺などもナマズとよばれたとされています(□は、変換ができない漢字でした)。

前回、ナマズの東日本への分布拡大が、江戸時代中頃とされていることをお伝えしましたが、 これは「鯰」という漢字も昔からあったものではなく、定着するまでにはある程度の期間がかかったということを示しているのですよね。

これらの百科事典や博物画集は、医師や幕臣が手掛けています。 一説によると、彼らのナマズを描いた状況が不透明な所もあるそうです。 ナマズの形体のアンバランスさには、その不明な部分がよくあらわされていると思います。

【ナマズを描いた人①】

鯰絵には、たくさんのナマズが登場しているのですが、ナマズの頭部の形や髭、目、歯、手足には、さまざまな様式がみられます。 つまり、鯰絵を描いた人たちは、かなりの人数がいたということになるのですね。
なかには、熟練した絵師の関わりがみえる画もありますが、素人が描いたのでは?と思われる拙い画もあります。
今回は、一見「ナマズ」にはみえないナマズの描かれた鯰絵をご紹介します(完成度の高い画も含まれています)。

国内鯰絵所蔵24機関の調査で確認した鯰絵は、230種類(2014年調)あり、まず、そのなかで、ナマズの姿を
「実物に近く描かれたナマズ」35種類、
「擬人化されたナマズ」115種類
に分類しました(ナマズが描かれていない鯰絵は外し ています)。
その「擬人化されたナマズ」から、ナマズの様式(目、歯、髭、手足、鼻、頭)を、28種類の型に区分けしました。 その結果、「ナマズにみえない」ナマズは、以下の4点ありました(「地震御守」は、条件付の擬人化されたナマズに分類しています)。

それぞれの特徴をいいますと
①「振出し鯰薬」
 ナマズの頭はちょんまげ姿で、ヒレが奇妙な位置についている。
②「地震御守」
 ナマズの形体は、龍のような尾を持ち、髭は4本描かれているが、長さの比率が不自然。
③「けんのうた」
 ヒレがぶら下がっているようにみえる。
④「弁慶なまづ道具」
 ナマズには2本の髭が真上に向かって生えていて、ヒレの形状がハッキリしていない。

このように、これらの画に登場するナマズは、ヒレの位置が不自然であったり、ナマズにしては奇妙に描かれています。 というより、そもそもナマズにはみえません。

たとえば、江戸時代に作成された『本朝食艦』には下記のように書かれています。

鯰は、大きな首、偃(ひくい)額、大きな口、大きな腹をしていて、背は蒼黒、腹は白く、口は顎の下にある。尾には岐(また) がなく、鱧(はも)に似ている。歯があり、髭があり、鯰の大き いものは三・四十斤にもなる。粘が多く、捕えにくい。

ヒレについては触れられていないのですが、誇張されて描かれるほど、目立っていたのでしょうか。
そもそも、淡水魚のナマズは、普段池や沼に棲息している生物ですから、水中から顔を出す機会があまりありません。
ですが、ナマズの東日本への分布拡大は、江戸時代中頃で、人為的な移植とされています。 江戸では、1722から1729年の間に浅草川(隅田川)や井の頭池、小石川あたりでナマズがみられているとも伝わります。

天保期から幕末期の時期に、江戸では鯰鍋も売られていたように、ナマズは食のほか、薬にも使用されていました。 鯰絵は幕末に流行しています。つまり、この頃の江戸の人たちにとってナマズは、既に馴染みのある生物だったと考えられるのです。

それではなぜ、一目でナマズと分かる鯰絵が大半を占めているなかで、 ナマズにはとても見えない「ナマズ」を描いた鯰絵があるのでしょうか。
それは、おそらく、「ナマズを描いた人たち」が、”ナマズをあまり見たことがなかった”、もしくは、 鯰絵には安政2年以前に描かれた版木を使用されているものもあるので、 この画も幕末よりずっと”昔に描かれた版木だった(作り直した)”か、のどちらかだったのではないかと思うのです。
とくに「地震御守」には、過去に起こした地震ナマズが描かれているので、以前の災害で描かれたものかもしれません。

とすると、鯰絵以外に描かれていたナマズ画は、どのように描かれていたのでしょう。

次回に続きます。

※④鯰絵「弁慶なまづ道具」については 鹿嶋市電子図書館HPでみることができます。

【「かなめ石の福」】

鯰絵「かなめ石の福」は、中村芝翫による「七変化所作事」における「拙筆力七以波」の中の「瓢箪鯰」を題材としており、 ここでは瓢箪を抑える職人が鯰とかけあう様子が描かれています。

鯰絵は、”絵師の名を明記していない”ことが特色の一つとして語られています。 ですが、この「かなめ石の福」の作者については、浅草の浅草寺の五重塔の九輪が地震で傾いたことや、 安政2年に豊国が描いた役者絵との比較などから、三代豊国(以下豊国)の関わりがかなり深いことが、すでに指摘されています。

私も「かなめ石の福」が豊国の手によるものとみており、2017年に行った「鯰の口元の様式」の検証から得た考察を、 学会にて発表しました(※1)。
概要は、安政江戸地震の発生前後を中心に、歌川派の絵師たちが描いた「鯰」にまつわる錦絵の作例を収集、 検証し、特徴が出やすい口元の描写に焦点を当てたという内容です。

三代豊国は安政江戸大地震前後には、「擬人化されていない鯰」を6点ほど描いていますが、 その「鯰の口元」に注目すると、豊国の描く鯰は全て口を閉じ、上下の唇とヒゲに厚みがあるといった特徴があり、「かなめ石の福」に 描かれた鯰の様式と比較すると全てに共通性がみられました。(この検証では国芳の場 合は様式が統一されていませんでした(数も少ない))。 裏付けとなる要因はそれ以外にもありますが、鯰絵の作者像を特定するにはまだまだ時間がかかると思っています。
ここでは、折に触れて、鯰絵の異版についての考察を述べさせていただいていますが、 ご指摘などがございましたらメッセージをいただければ幸いです。

錦絵の異版同様に捉えていいかどうかも含め、賛否両論のある場面もあると思います。 ですが、役者絵の版木で見られるように異版は当時の錦絵には日常に行われていたことであり、 それが鯰絵の出版にも反映されていたと考えられます。

最近の分析では、それらを踏まえ、鯰絵が、歌川絵師たちが主体となり作成していたこと、とくに、 三代豊国や国芳の描いた既存の錦絵をパロディ化されていたことを時系列にして紐解いていくと「様式のパターン化」だけではなく 「鯰絵にみる信仰」の分類が可能となっています。鯰絵制作に関与した絵師についての新たなア プローチができるので、楽しみでもあります。

ちなみに「五重塔の九輪」は図版向かって左上にあります。鯰絵には、曲がった五重塔の九輪が描かれたものや、 それについて述べられている詞書きも多くみられます。その点が、安政江戸地震を踏まえた鯰絵であることを読み取るポイントです。

(※1)細田博子「鯰絵の作者像についての考察」第22回 国際浮世絵学会 秋季大会2017年

【かけ合あふむ石】

鯰絵「かけ合あふむ石」は、「歌舞伎「浮世柄比翼稲妻」の二幕目「鈴ヶ森」のシーンをかけてつくられています。

「鈴ヶ森」は、白屋権八を捕らえれば金儲けができると知った追い剥ぎたちが、 雲助駕篭に乗った権八を取り囲みますが逆に切られてしまいます。そこでこの手練を見ていた町奴の頭領、 幡随院長兵が立ち去ろうとする権八を呼び止めているという名場面です。

「かけ合あふむ石」は、鹿島大明神が幡随院ならぬ磐石院鹿島屋長兵衛に扮し、 鯰の雲助を追い散らした権八の腕前に感心して、名乗りを上げる場面をパロディにして仕立てられていますが、 当時かなり人気のあったものと思われます。

というのも、異版が3種類もありました。

「提灯に赤がはいっているもの」
「波の線が多いもの(青線と黒線)」
「波の線が少ないもの(黒線のみ)」

複数の人が描いたのではと思っていましたが「鈴ヶ森」は三代豊国も国芳も描いている題目なので、 どちらの門下生が描いていたとしても不思議ではありません。

嘉永3年「幡隨長兵衛」歌川国芳画、天保9年「幡ずい長兵衛市川海老蔵」三代歌川豊国 と比較すると、 鹿島大明神の着ている衣装の模様、左肩に掛かる衣装の模様や平井権八扮する白屋権八の顔、 背景にある波と追い剥ぎの出で立ちから共通性が多くみられます。

とはいえ、この鯰は一番多く描かれる様式でもあるので、作者蔵もなかなか絞りきれません。 新たな発見がありましたら追記していきたいと思います。

宮田登/高田衛監修『鯰絵―震災と日本文化』 里文出版1995年
「かけ合あふむ石」東京大学総合図書館 石本コレクション蔵

【古今まれなる大地しん】

鯰絵「古今まれなる大地しん」は前から気になっていました。
というのも、みな災害にあった人たちであるのに、湯屋内の様子をコミカルに描いているからです。 鯰絵には鯰が描かれていないことは珍しくないのですが(※1)、そもそも、地震で建物が崩れるなか、 湯屋から慌てて飛び出す人びと。 場所が場所ですから皆裸ですし、詞書きには女がしがみつくから有難いなどと番頭のつぶやきを記している ところは鯰絵らしく諷刺が効きすぎているのです。

いかにも批判を受けそうなモチーフですから、意外と結構な大物絵師が描いたのではと考えています。
”十月二日四ツ時ヨリ”
と書かれているので、安政2年の地震時に出回ったことは間違いないのですが、一部別版ではないかとも考えました。
たとえば、「お老なまづ」のように。
「お老なまづ」は安政江戸大地震時に数千枚売れたといわれ鯰絵流行の先駆けとなった作品です。 地震の翌日に仮名垣魯文が文面を考え、河鍋暁斎が絵をつけて版行したのですが、詞書き(仮宅情報)は 後日加えられていると言われています。
というのも、「お老なまづ」の芸者や鯰に扮した男の上部には、仮宅の許可がおりた町名が列記されています。
ですが、仮宅が10月20日に営業申請、11月4日に許しを得て12月から翌春にかけて営業されたことを踏まえると、 地震発生2日の翌日に仮宅情報が書かれていたのはありえないことになるだからとか。 つまり「お老なまづ」は地震の翌日販売でヒットしたため、後日仮宅情報を追加してからまた販売したのですね。

ですので、「古今まれなる大地しん」についても詞書きの箇所だけは別版の可能性もあることも考えられるのですが、 構図上難しいようにも感じられますし、売られていた時期は、余震の続いていた頃の期間かと思われます。 ですが、人びとの気持ちを軽くするので、十分注目度が高かった構図ではないでしょうか。

「古今まれなる大地しん」国立国会図書館蔵

(※1)鯰絵の定義は「安政二年の地震の際に作られた鯰を書いた錦絵(のほか、鯰が描かれていないものや墨刷一色のものであっても諷刺やパロディ−に富んだものも含める」
(加藤光雄「鯰絵総目録」『鯰絵』里文出版1995年)に基づく。

【しばらくのそとね】

鯰絵「しばらくのそとね」には、歌舞伎「暫」の主人公、鎌倉権五郎が、鯰坊主をこらしめる場面が描かれています。
江戸時代「暫」は江戸歌舞伎の顔見世興行で毎年のように演じられていた人気の演目だったことから、 人気の高かった鯰絵としても伝わります。

作者不明の”鯰絵”ですが、この「しばらくのそとね」については、三代歌川豊国画、仮名垣魯文の文案によることが、 後世の記録により知られています。

確かに、ほかにみる粗雑な鯰絵に比べ、「しばらくのそとね」はとても綺麗な仕上がりです。 三代豊国らしい安定感があります。 鯰絵の出始めた当初は、彼らが先導して制作していたと思いますが実際はどうなのでしょう。

「しばらくのそとね」は、国内では9枚を確認しました。 詞書きが絵に重なっているものといないものが2種類ありました。 売れ行きが良いことから、増刷されたのでしょうか。 また、もともと三代豊国が描いていた画にあとから暁斎が詞書きを加えた可能性も考えられます。

天明2年(1782)の歌舞伎「暫」では、鯰坊主が「おれが今この髭をちっとばかり動かすと、 この秋のような地震がするぞ」という台詞を言いました。 ということは、この頃の江戸の人たちにとっては、すでに鯰を「地震」としてイメージしていたことが明らかです。 不思議なのは、それ以前はどのように思われていたのか、ということです。

そもそも、江戸で鯰が初めて発見されたのは、享保7–8年頃、 その後享保13年には江戸の大火以後多く見られるようになり、享保14年には災害で井の頭池があふれて 小石川あたりまで満ちたときに鯰がいたことが知られています。

江戸の人が鯰に馴染むようになったといっても、鯰の発見当初は、 江戸にいた人たちにとっては”地震”のイメージとは結びつけてはいなかったと考えられるのです。
そうしますと、歌舞伎や三代豊国の行動がいかに流行を生みだしていたかがわかります。

「しばらくのそとね」 国立国会図書館蔵
宮田登・高田衛監修『鯰絵 震災と日本文化』里文出版1995年

【なまづの力ばなし】

鯰絵「なまづの力ばなし」には、善光寺地震の信州鯰と安政地震の江戸鯰が、髭を結んで輪を作り相手の首にかけて 力競べをしている様子が描かれています。
当時遊郭のお座敷遊びであった「首引き」をテーマにしています。

ただこの図版、異版があるのです。
この2枚の鯰絵、なにかが違うと思いませんか。

鯰の着ている着物と柄が青系と緑系に大別することができるのです。 ほか、向かって左の図版には、背景に緑のふきあげ、上部に橙茶色の一文字ぼかしがみられます。
一般的に初刷りに施される一文字ぼかし。
吹き上げぼかしの異版といえば、歌川広重 の天保4-5年、東海道五拾三次之内 蒲原《夜之雪》が知られています。 この吹き上げぼかしがあるものとないものとの比較では、どちらが初摺りか、そもそも異版だったのかどうなのか、 など、見解がいろいろあるようですが、「なまづの力ばなし」の場合、背景の吹き上げぼかしの状態から、 それなりの技量があり、慣れている彫り師が仕上げたと思うのです。

加えて、この鯰の雰囲気は、黒目が丸く白目の縁なし、頭の形が楕円で口先がやや突き出していて、 全体的にやさしい表情をしています。擬人化された鯰のなかで一番多い様式です。

地震発生直後の、急いで摺り上げなくてはならない状況下で、吹き上げぼかしを施すの、 ということは、歌川国芳や三代豊国の”チーム”で、競い合って制作したような気がしてなりません。 また、腕の良い彫り師さんなのではと謎は尽きません。

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