今回は、吉川市を中心に、“ナマズを食べる”ことについて考えてみたいと思います。
吉川市は、埼玉県の東南部に位置しています。新田開発で増えた広い水田に江戸川と中川に挟まれた風土は、
ナマズの棲息地としても最適な環境です。舟運が栄えていたことから、江戸時代には川魚料理店が軒を連ね、
「糀家」(写真①)や「吉川福寿屋」「割烹ますや」など、現在もナマズ料理が食べられるお店があります。
昭和40年代頃の一般家庭でもナマズ料理が食卓に並ぶことがよくあったそうです。
もう少し範囲を広げますと、浦和市(現さいたま市)においても、「なかや」・「満寿屋」・「山家」・「蔓店」ほか、
川越市には「はや幸」、岩槻市(現さいたま市)には「小島家」・「沖田家」・「きわい家」、春日部市には「宝家」など、
川魚ナマズの天ぷらや蒲焼き、刺身などを提供する料理店がみられます(閉店した店舗含)。
また、埼玉県南部の綾瀬川と平行に流れる伝右川の上流、浦和市玄蕃新田の地域では、昔から一部の人たちによって行われている
「鯰ぶっ斬り」という漁法があり、獲れたナマズは肉団子揚げにしたり、スッポン煮や天麩羅にして食べていたようです。
ちなみに、安政2年の江戸大地震時に流行した鯰絵にも、民衆がナマズを食している様子が描かれています。
たとえば「江戸前かばやき鯰大火場焼」。口上書には「なまづ日本煮」とも記されていることから、
当時ナマズが庶民の身近な食べ物であることがみてとれます(参照図1)。東日本では、比較的ナマズを食べる習慣がみられます。
西日本においてもナマズが食べられる料理店や地域は多くありますが、一方で、古来ナマズを食べることを禁止している地域もあります。
たとえば、阿蘇神話が継承される地域や福岡市早良区賀茂の賀茂神社一帯など。
ここでは、ナマズは土地の神様のため、現在もナマズを食べることが禁じられています。
佐賀県や福岡県には、食べると祟りが起こると伝えられている地域も存在します。
江戸時代から川魚料理の食文化が根付いている吉川市では、ナマズの養殖にも取り組んでいるそうです。
これは郷土料理として長い歴史の中で育まれてきた食文化であり、”ナマズを食べる”ことは、後世に伝えたい大切な伝統です。
日本国内では、このように地域により“ナマズを食べる”ことへの捉え方は様々ですが、共通しているのは、
ナマズが食の文化や民俗において貴重な存在として扱われていると考えます。
参考資料
・吉川市教育委員会編「川とともに生きる〜吉川市の水利用と水害の歴史〜」2024年
・安斉忠雄「綾瀬川水系の漁撈 —伝右川の鯰ぶっ斬り—」『埼玉民俗 第十号』埼玉民俗の会1980年
・武田祐吉「肥前國風土記」『風土記』1937年 ・細田博子『鯰絵で民俗学』里文出版2016年
先月、埼玉県吉川市長との意見交換会にお声がけいただき、吉川市役所へうかがいました。これまでにもご紹介したように、吉川市は、モニュメント(写真①)やマンホール(写真②)、なまずのぼり(写真③)、ナマズ料理など、ナマズを通して地域おこしの取組みを幅広く行っています。その日は、全国のナマズに縁のある自治体や団体等の方が参加する「全国なまずサミット」について詳しくお聞きするなど、話題はまさに“ナマズづくし”。そのなかでも印象的だった話題の一つが、“創作むかしばなし” についてでした。
私はこれまで全国のナマズにまつわる民話や伝説を収集し、実在する伝承地を訪れてきましたが、実は埼玉県の「ナマズが登場する昔話」をあまり知りません。しかし吉川市長によれば、吉川市では昔話を制作したことがあるとのこと。いただいた『吉川むかしばなし』には、公募によって選ばれた受賞作品が原作の「なまずの人助け」が収録されていたのです。下記にまとめます(写真④)。
むかし、二郷半領上笹塚村の小高い丘に大きな森があり、その中にある深い沼には恐ろしい沼の主が住んでいると伝えられていた。ある日子供たちが沼の淵に近づくと、突然沼の中から子供ナマズが飛び出したが、可哀想だと沼に返すことにした。翌年の秋、大雨が続き庄内古川の堤が決壊して大量の泥水が村を襲った。着の身着のまま森に逃げ込んだ村人たちは空腹に困ったが、ナマズを焼いて食べ飢えを凌いだ。そして無事に家へ帰ることができたのだが、その後、お礼にナマズの骨を埋め小さな祠を建てお参りするようになった。その後庄内古川が決壊しても、亡くなった村人は誰もいなかった。
ナマズが恩返しをするお話です。ところで、この「深い沼」や堤防は実在しているのか、とても気になりました。というのも、私がこれまでみてきた全国のナマズにまつわる昔話には、地域にふりかかった自然災害との関わりを持つ内容が多くみられるからです。調べてみると、吉川市には、なんども水害に悩まされてきた歴史があり、二郷半領上笹塚村には、庄内古川の堤が実際に残されていることがわかりました。また、災害時にナマズは貴重な食用として扱われていたことも伝えられていました。
ちなみに、少し範囲を広げてみると、埼玉県浦和市(現さいたま市)の地誌『浦和』にも、水害とナマズにまつわる昔話がありました。そのなかに収録された「鯰と笛」には、見沼たんぼの八丁堤と見沼の主のナマズが登場しています。また、享保13年、井沢惣兵衛為水が見沼田甫の開拓に着手する以前は、雨季や暴風雨時になるとこの堤防が決壊してたちまち洪水となり、見沼一帯の被害はたいへんなものだったことが記されています。
吉川市の昔話の舞台にも、庄内古川の堤が決壊についてふれられています。そこには、水害で堤防が破壊され農作物を育てる人々の苦労も感じられ、食文化に影響を与えたナマズに関する民俗が表れていました。「なまずの人助け」は、これからもたくさんの地域の方々に語り継がれていくことと思います。
参考資料
・峯 健二「なまずの人助け」『吉川むかしばなし 第2集』吉川市2021年
・中野蒼穹「鯰と笛」『浦和 No.134』「浦和」編集室1980年
・くじらおかえりこ「なまず太朗」『市制記念 吉川むかしばなし』吉川市1997年
・くじらおかえりこ「なまず太朗」『市制施行20周年記念誌 吉川むかしばなし』吉川市2016年
千葉県印西市岩戸地域の県道64号線沿には、ナマズのオブジェがくくりつけられた街路灯があります。その“ナマズ”は、青く着色された背びれが反り返った形をしていました。車の往来が激しかったので、じっくりと眺めることができなかったのですが、街路灯は、一定の距離を開けて設置されていたように思います。
それにしれも、なぜここに”ナマズ”があるのでしょう。
印西市HPをみると、ナマズが市の魚として指定されていました。
「河川や湖沼に生息することから、利根川、印旛沼、手賀沼といった地域を代表する河川と湖沼を有する印西市では大変馴染み深い魚です。また、愛嬌のある容姿から市民に親しまれており、市のキャラクターとしての活用が期待されます。」
(印西市HP「市のシンボル」ページ抜粋)
そういえば、この地域に入る前に通った印旛沼近辺には川魚料理店をちらほらみかけました。むかしから日常的に人々のそばに存在していた生物でもあったのですね。
※共同通信社配信 「なまずのよもやま話」には、旧印旛村の広報資料や関係者から伺ったお話を掲載しています。
ご興味がある方は、ぜひそちらもご覧いただけるとうれしいです。
三回めのテーマは、蒲鉾(かまぼこ)です。最終回は、蒲鉾を通して “神奈川県小田原のナマズ”をまとめます。
蒲鉾は、すりつぶした魚肉を板付けして形成された、お正月やお祝い事など日本の食卓に欠かせない食品です。
蒲鉾の歴史は古く、平安時代貴族の生活文化を記した『類聚雑要抄』(1115年)には、
蒲鉾は高級料理として振舞われていたことがみえます(図版④)。
その蒲鉾の原材料に、ナマズが使用されていたことをご存知でしょうか。
武家故実書『宗五大草紙』(1528)には「かまぼこは鯰本也、蒲の穂を似せたる物なり」と記載があります(図版⑤)。
“蒲の穂”とは、円柱のちくわのような形体をしている多年草です。
もともと蒲鉾は、竹の棒にすり身を付けて焼いた蒲の穂のような形で作られていました。
現在よくみかける“板付”の型になったのは室町時代に蒲鉾の水分量を一定に保つことで腐敗防止につながるからだとか。
“小田原名物・蒲鉾”の由来は「小田原宿」にあります。
というのも、江戸時代、大名の参勤交代があり東海道が整備されていた小田原では、
伊勢神宮へ参拝するお伊勢参りの流行も相まって宿場町“小田原宿”が賑わいました。
水と魚にめぐまれた“小田原蒲鉾”の美味しさは、蒲鉾を食べた大名や旅人から各地へ伝えられたのだそうです。
ですが、小田原蒲鉾の原料のなかに「ナマズ」は使用されていません。
なぜなのでしょう…。
その疑問を解消するため、小田原市風祭にある鈴廣かまぼこ博物館を訪れました。
ここは、生の魚からすり見を作り、手作りで蒲鉾を製造する過程や、その高質な栄養価など、
かまぼこの歴史や知識を深く学ぶことができる体験型博物館です(写真⑫)(写真⑬)。結
果、蒲鉾に使われる魚には、シログチ、キグチ、カマス、スケトウダラ、ヒラメ、イトヨリダイ、トビウオ、
イサキ、アジ、エソ、ムツ、タチウオ、オキギス、ハモなど、種類豊富に使われていることがわかりました。
もちろん、原料のなかに「ナマズ」はありません。
そもそも、ナマズの東日本への分布拡大は、江戸時代中頃で人為的な移植とされています。
おそらくは、相模湾に面し蒲鉾づくりに最適な環境が整っている小田原では、ナマズ以外の魚で賄っていたと
考える方が自然だと思いました。
ちなみに、ナマズの料理法には近世期に変化が見られます。
『当流節用料理大全』((1649年,1714年)『料理網目調味抄』(1730年)『万宝料理秘密箱』(1800年)『新撰庖丁俤』(1803年)には、
蒲鉾、なまづ汁、かばやきなど、バラエティに富んだ品が記載されているのです。
また、幕末の江戸で流行した鯰絵(なまずえ)のなかにも、ナマズを料理する画がみられます。
たとえば、「江戸前かばやき鯰大火場焼」にみる口上書には「なまづ日本煮」とあり(図版⑥)、「なまず大家破焼」にも、
いまにもナマズが蒲焼きにされようとする場面が描かれています(図版⑦)。
1840〜50年頃の江戸では、一町(約109m)に二、三軒の割合で鰻屋があり、蒲焼は江戸の民衆と密接な食べ物だったといわれています。
もちろんナマズについても身近な食として扱われているのですが、献立に「蒲鉾」の記載はありません。
一方で「『新撰庖丁俤』には鯰を使った人を「好事」と記されている」という指摘もあります。
このように、古代〜中世期には高位の貴族でも鯰を食していたものが、
近世期には武士の献立や気軽に食べられ民衆の料理へと変化しているのです。
蒲鉾も同じように、時代を経るごとに変容がみられるというわけです。
まとめです。
今回、三つのテーマ(酒匂川・地震・蒲鉾)から、主に小田原のナマズとの関わりを掘り下げました。
テーマ1で取り上げた酒匂川を背景に描いた「役者見立東海道五十三駅」(三代豊国画)も、テーマ2の
県道74号線上に設置された“ナマズの案内板“も共通するナマズのイメージは「地震」でした。
「役者見立東海道五十三駅」が話題になった頃は、酒匂川にナマズが生息していたことと、「ナマズ=地震」のイメージが
周知されていた時期と重なります。それは、江戸時代中頃以降にナマズの東日本への“分布拡大時期”と重なっていることで裏付けられています。
民話や伝説などの伝承は、人々の生活のなかから口承によって育まれます。
当時、宿場町「小田原宿」では、酒匂川にナマズがいることや「役者見立東海道五十三駅」が話題になったのでしょう。
ですが、地元の民衆とってはまだ“ナマズ”に馴染みがなかったのかもしれません。
むしろ“地震”のイメージを与えるナマズ坊主の登場する歌舞伎や浮世絵から受けた影響の方が大きかったのではないでしょうか。
そうした環境と時代背景が、神奈川県小田原にナマズの民話や伝説がほとんど残されていない理由だと推察しました。
参考資料
後藤芳江「平安から江戸期の鯰料理事情」『鯰絵』里文出版1995年
宮本真二「縄文時代以降のナマズの分布変化」『鯰—イメージとその素顔』八坂書房2008年
鈴廣蒲鉾本店『かまぼこのひみつ』世界文化社2016年
ナマズにまつわる伝承に関する著作物はおよそ400を超えます(※1)。
そのなかで、神奈川県にはナマズにまつわる民話や伝説がほとんど残されていません。
その理由を三つのテーマに分けて深掘していきます。二つめのテーマは「案内板」です。
前回お話した神奈川県小田原市荻窪にある「めだかの学校」。
そこからすぐの県道74号線に向かうと、ナマズのイラストが描かれた緊急交通路案内板がみえてきます(写真⑧-⑩)。警視庁HPをみると、
「この案内板のある路線は、緊急交通路に指定される予定路線です。
緊急交通路に指定された場合には、緊急通行車両等災害の応急対策に従事する車両以外は通行できません。」
とあります。これらの案内板、設置間隔が非常に狭く、三枚も設置されています。
そもそもなぜここが設置場所なのか、由来となった歴史地震などがあるのか気になり直接伺いました。
すると、過去に発生した他県の震災事例にならい、災害用の緊急車両が渋滞で動かないことがないよう
一般車両の進入を防ぐために設置が行われたと教えていただきました。また、設置年や設置理由は不明であるとのこと。
いずれにしても、狭い範囲に三箇所も設置されているということは、「優先度の高さ」を示していることがわかります。
この場合“ナマズ”は、「災害」と「緊急性」を示す役割を持っていることになるのでしょう。
ところで、この案内板の位置から車で5分ほど、小田原市城内と栄町一丁目を隔てる市道には、
「弁財天通り」があります。神奈川新聞によると、この名前、実は昭和60年に復活したということです。
それまでは「市道0004号線」や「旭丘の通り」と呼ばれていたのですが、
かつて(30年頃まで)「べんざいてんどおり」と呼んでいたことを知る地元有志により表示板が立てられたとあります。
元々ここには、神奈川県藤沢市江の島の弁財天を水の神、相楽湾の守り神として分霊して祀ったという記録があるそうです。
ですが、ナマズと関連はあるのでしょうか。
というのも、そもそも日本の三大弁天と鯰の神性については諸説あります。
たとえば、「日本の三大弁天(江ノ島、竹生島、厳島神社)には、それぞれ独自の信仰のあり方を示している」と伝わる一方で、
「江の島や竹生島、厳島や松島では、ヘビや龍とならんでナマズが神池の主とされる」という説があります(写真⑪)。
これについては、弁才天の眷属としての鯰と信仰について示したことかもしれませんが、
私が調べた限りでは、神奈川県江の島と広島県厳島、宮城県松島に関しては、直接的な信仰や伝承はないと捉えています。
ナマズと関係する伝承があるのは、竹生島のみです。
つまり、今回でいえば、江ノ島弁才天および、小田原市のナマズの案内板、弁財天通りの由来についても、
ナマズにまつわる伝承ではないということになります。
小田原といえば、蒲鉾が有名ですね。三つめ最終回のテーマは「蒲鉾」です。
(※1)書籍、地方誌、自家版、口承記録を含みます。
(参考資料)
荒俣宏 1989 『世界大博物図鑑』第2巻[魚類] 平凡社
大島建彦 1992 「弁天信仰と民俗」『日本の美術317号 吉祥・弁才天像』 至文堂
細田博子「竹生島における鯰の表象と弁才天」『ビオストーリー』36号 2021年 生き物文化誌学会
神奈川県には、ナマズの民話や伝説はほとんど残されていません。
そこで、これからテーマを三つに分けて、神奈川県小田原の地域とナマズとの関わりを考えてみたいと思います。
まず一つめのテーマは「酒匂川」です。
「酒匂川(さかわがわ)」は、小田原市中央に流れる川で、富士山から注ぐ小田原を経て相模湾に注いでいます。
天保期に歌川広重が描いた「東海道五拾三次之内 小田原 酒匂川」にも描かれており、正面に描かれた山の麓には、
小田原城がみえ、輦台に乗った旅人らが川を渡る様子がうかがえます(図版①)。
当時小田原を流れる酒匂川には橋がなかったため、旅人は人足によって川を渡らなければならなかったといいます。
図版①をみる限り、当時酒匂川にナマズが生息していたことを確認することはできません。
ですが、この風景に歌舞伎役者の似顔絵を組み合わせたシリーズ「役者見立東海道五十三駅」「小田原箱根間 曽我の里」には、
長いヒゲをもみあげから垂らした”鯰坊主”が登場しています(図版②)。
”鯰坊主”のいる場所は、酒匂川を超えたあたりでしょうか。
川の様子はわかりませんが、「役者見立東海道五十三駅」は、それぞれの地名にちなんだ歌舞伎役者が描かれているシリーズです。
つまり、小田原と“鯰坊主”が関係の深い間柄であることを示しているわけです。
ちなみに「役者見立東海道五十三駅」は、嘉永期に歌川国貞(三代豊国)が描いた作品ですが、
この“鯰坊主”は、安政2年に発生した江戸大地震時に流行した“鯰絵”「しばらくのそとね」にも登場しています(図版③)。
図版③には、主人公の鎌倉権五郎がもみあげから垂らした長いヒゲの”鯰坊主”をこらしめる場面が描かれています。
この作品も三代豊国の作品であると伝えられています。
つまり、この時代は、ナマズが地震のイメージとして受容され、酒匂川にはナマズが生息していたと推測することができるのです。
実際、酒匂川水系の魚類調査においても、主に酒匂川下流から河口部、狩川の農業用水路にナマズが生息し、
酒匂川左岸中流部に隣接する桑原・鬼柳用水路でもナマズが確認されています(写真①)。
これは、酒匂川流域に広がる水田地帯と用水路には高低差がほとんどない点や、
高水温の水田繁殖に適していることが要因であるようです。
一方、酒匂川の南側を通る県道74号県付近、荻窪用水地域には「めだかの学校」が設立されています(写真②)(写真③)。荻
窪用水は、江戸時代に箱根町塔之沢付近で早川の水をせきとめ、約20年かけて完成させたものだそうで、
メダカが繁殖しやすい環境です(写真④)。この条件はナマズにも適しているのですが、
ナマズはメダカを食べてしまうのでは、、と疑問にも思いました。
ですが、そうであれば、メダカにまつわる伝承は存在しないので、
この用水にはナマズはあまりいなかったのかもしれません(奇跡的なことですよね)。
二つめのテーマ「案内板」につづく
(参考文献)
沖津由季・勝呂尚之「メダカを中心とした小田原市桑原・鬼柳農業用水路の魚類」『神奈川自然誌資料』(22)神奈川県立 生命の星・地球博物館2001年
斎藤和久「酒匂川水系支川の魚類」『神奈川自然誌資料』(26)神奈川県立 生命の星・地球博物館2005年
東京にある三つめの要石は、力石が多く残る八王子上恩方町にありました。
そのなかでも個人宅の敷地内にある”椿山の要石”には、昔から”地震の通り道にあたっているため、
要石は地下の鯰の頭を押さえている”と伝わるといいます。
”椿山の要石”を実際に見ると丸みのある頭で地上に(直径約30〜40cm)直立しています。
『恩方村の伝説』(1954年刊)によると「数年前、所有者が1,3 mまで掘ってみたところ、
底が知れなかったため、そのまま埋めて大切に保存してある」とあります(写真①)(※1)。
実際に掘った時期というのは、その頃から「数年前」ですから、戦後の混乱が落着き、
高度成長期が始まる前の時代になるでしょうか。当時の新聞には、
魚類が地震に先立ち示した異状行動の寛例を集めた記事が見出し(「地震とナマズの謎」昭和24年)に
取り上げられるほど、震とナマズの関係についての世間による関心の高さが伺えます。
ちなみに、これまでにご紹介した要石伝承を地図に配置しますと、要石が全て西側地域に位置する一方で、
東側地域には「要石」はなく、鯰にちなんだ「要石の伝承」のみが見られます(地図①)。
たとえば、二年に一度開催される神田祭で練り歩く「大鯰と要石」です。
この曳き物は、「神田明神祭礼図」(図版①)に描かれた「大鯰の山車」から着想を得ており、
大鯰の頭には、暴れる鯰を押さえつけ地震を防ぐ「要石」が置かれています(写真②)。
江戸時代では、神田明神の祭礼・神田祭が江戸城内へ入るのが一般化した習わしだったことから、
人々が鯰のイメージを地震と捉えていたことがよくわかります。
また、安政2年に発生した大地震時には鯰絵が流行しました。
関東南部下町の被害は相当なものですが、その際に流行した鯰絵は「鯰が暴れることによって地震が起きる」
という概念のもと、要石で鯰を押さえる構図が多く描かれています(図版②)。
これは、常陸鹿島神宮による要石信仰の影響を多大に受けたものですが、
鯰絵のなかには、その信仰が次第に薄れる構図も見られました。
幕末にもなると、鯰の民俗についても、食と薬用といったの多様性が見受けられます。
たとえば、下級武士の献立(「石城日記」)から庶民の鯰料理(『守貞謾稿』)に至るまで
鯰が食用として扱われているのです。この「食する」という行為は、御供を目的としていません。
阿蘇地方や近畿地方にみられる鯰信仰からすれば禁忌を犯す行為となりますから、
ここに地域性の差異がみてとれることも確かです。
とすると、東京の要石はどのような位置付けにあるのでしょうか。
『石の宗教』によると、古来「石」には、神や仏や霊の魂がこもるという霊魂崇拝が発達していたといいます。
かつて石に霊魂の実在を認めた日本人は、自然の石を崇拝の対象にしたからこそ、
守り神にも成り得る存在だったというものです。確かに、鯰伝承にみられる石仏や石造物には、
鯰の霊力による信仰事例が散見されます。
東京の要石は、豊鹿島神社の祀られた要石、八王子の民話とともに馴染んでいる要石、
個人所有の”椿山の要石”と保存環境が様々ですが、「要石を安心の拠り所にしている」ことは共通しています。
偶然にも、所有者及び地域の方から「この地域では地震はあまりないし、
鯰の話もあまり耳にしない」と仰る台詞が印象的でした。
つまり、少なくとも、東京の要石と鯰の関係については、江戸時代に「鯰が暴れたから地震が起きたので要石
で抑える」という概念が、現代では「この要石があるから地震が起きない(鯰が暴れない)」
という概念に変容して各地域に継がれているのです。
(※1)同様の内容が、郷土史『続 郷土 夕焼けの里』 1990年や 『とんとん健康さんぽ道』2010年にも記載されています。書籍には「個人宅裏手の畑」と記載されています。
東京都東大和市芋窪の豊鹿島神社には、高さ約20cm、根まわり2m ある要石が、
(近隣南方に鎮座する蓮華寺に隣接した)境外に祀られています。
今回は、この要石にまつわる五つの言い伝えをご紹介し、
地震と鯰のイメージがついた時期を考えてみたいと思います。
まず、一つめ。
昔、耕作のさまたげになるほど大きな石だったために、ある日村人たちがこの石をとりのぞこうとしました。ところが、地下にいくほど大きく、掘り出すことができません。それ以来「要石」というようになった。
二つめ。
石のかたわらを掘り、出てきた虫の数によって、授かる子供の有無や数を占う虫占いの言い伝え。一ぴきなら一人、二ひきなら二人というように、虫の数と同じだけ子宝に恵まれる。死んだ虫が出ると大凶で、子供の死を暗示するというので、人々は真剣な気持で占った。
三つめ。
昔、要石の傍にある大きなもみの木を伐ろうとしたその年に大変な雹の被害に見舞われたため要石のたたりとされた。
四つめ。
大古の昔このあたりが海だったころ、武甕槌命が東国に降った折に、船をつないだのがこの石だという言い伝え。
五つめ。
豊鹿島神社の祭神が、常陸の国・鹿嶋神宮に祀られる武神・武甕槌神であることから、神社を創建する際に武蔵の国へ来た鬼神を常陸峯に鎮めたという言い伝え。
このように、文献や書籍によって要石のイメージが違いますよね。
それでは、いつ頃、地震と鯰のイメージがついたのでしょうか。
この要石の撮影時、地域の方が「この地域では、昔から地震がない土地といわれていることから、
この要石は土地沈めの石として親しまれている」と仰いました。ということは、地震の要石
として認識しているということになります。
五つめの言い伝えの際に、同じように要石と呼ぶようになったといいますから、
それが大きな影響を与えているのかもしれません。
豊鹿島神社の創立は慶雲四年とされています。もちろんそれほど古くから鯰のイメージはついていないと思います。
そもそも鯰の存在が確認できないのもありますが、常陸鹿島神宮の要石に伝わる信仰
(この国をゆるがす鯰(地震)を要石で抑える)でさえも、
古くは『常陸国誌』(寛永年中)には記述がみられるものの、そこには「鯰」ではなく「大魚」とされているのみで、
「大なまづ」と記されるのは『広益俗説弁』1912年以降です。
ですので、この要石と鯰のイメージは、幕末より後の時代についたのではないでしょうか。
この要石の言い伝えを記した『新編武蔵風土記稿』(1830年)をはじめ、
ほかの言い伝えとともに広くこの地域に根付いたものと考えられます。
[参考資料:『新編武蔵風土記稿』(1830年)『挟山之栞』(1939年)『東大和よもやまばなし』(1982年)『信仰のすがたと造形』(1998年)『東やまとの散歩道』(2009年)]
今回は東京都八王子にある「要石」のお話(追記)です。
この要石には「功法の要石」と書かれた説明板が設置されています。
下椚田村の大牧に、“まき”という評判の孝行娘がおった。まめまめしく気がつく、働き者じゃった。
ところが、ある日野良仕事に出た留守に大地震が起こった。家が倒れて老父母が死んでしまった。
まきは、大声で泣き、恨み嘆いたが、思いなおすと、観音さまに祈念したそうじゃ。
「この悲しみが、二度と、ほかの衆に及びませんように」と、けなげに願った。さて…、ちょうどその折、
十里も離れた足柄の山中を、歩いていた一人の旅の坊
さまが遥かに、まきの祈る声を聞かれた。坊さまは、急いで、大牧に駆けつけて
おいでになると、「二度と震災を起こすまいぞ」と、大石で大地を押さえられた
ということじゃ。その後、この地には震災は起こらんと…。そして、この坊さま
は、功法さまだったそうな。裏の話じゃと、この要石の下には大ナマズがいて、
頭を押さえられておるということじゃが、いまだに、だれものぞいた者はおらん
そうじゃ。 」
この昔話は『とんとんむかし』(1987年)に収録された物話のようです。
『とんとんむかし』シリーズは、いくつか出版されています。地元の方のお話をうかがうと、下記
の物話も合っているような気がしました。
頻繁に山津波が発生する案内の谷の里には、大きなナマズがいて、ときどき大あばれすると言われていた。
ある年の山津波発生時に、旅の坊さまを里の子供たち
が助けたお礼に坊さまは法を唱えると、七日目にして天から大石が降ってきた。
その後、この里に大地震の被害はなくなったという。この地中に突きささった大
石が、要石だという。里の衆は、この要石が、地の底の大ナマズの頭を、がっち
りと、おさえつけているのだと信じていた(概要)(『高尾山昔話とんとんむか
し』1996年)
『とんとんむかし』シリーズは地域に根付いた昔話です。
1970年代には、東京新聞ショッパー紙上で四年にわたり連載されていたそうで、『とんとんむかし』シリーズ
を読んで育った地域の方も多いとか。
もともと八王子の昔話には、弘法さまがよく登場しています。
功法伝説が長い間に語り継がれ形成されたのは、江戸期後半から明治へかけての頃だそうです。
『八王子の功法伝説』によると、厳密に言えば証拠立てできない虚構とはいえ、
長い間語り継がれるうちに「旅するする功法大使」の存在に愛着が湧き親しまれるようになったと記されています。
功法伝説と鯰の関わりについても、時間をかけて結びつき周知されています。
地域の方から「この地域は地盤が固い。
この要石は、鯰の頭を押さえているから地震おさえとして伝わっている。」とうかがい、
現在ではすっかり地域に根付いた「要石と鯰」であることもわかりました。
この要石は、八王子山田駅からバス停「要石」付近にあるマンション前にあります。
栃木県日光市には、日光山輪王寺には、徳川家光の墓所、大猷院(たいゆういん)があります。
その大猷院の夜叉門には、四夜叉、阿跋摩羅、犍陀羅、烏摩勒伽、毘陀羅が安置されており、
このうちの毘陀羅(びだら)の膝には”ナマズ”が施されています。
この”ナマズ”。
関係者のお話によると、資料は残っていないため、どのような経緯で制作されたのかは不明ですが、
海外からの影響を受けバリエーションの一つとして掘られたのだろうとのことでした。
そもそも、なぜ”ナマズ”だったのでしょう。
前回ご紹介した逍遥園の鯰の石造物とは関係がないというので、まず、鯰の民俗の視点から考えました。
この四夜叉のうち、阿跋摩羅、犍陀羅の膝には掘られていないのですが、烏摩勒伽の膝には象が掘られています。
象と鯰の共通点がすぐには浮かび
ません。ですが、霊廟を「守る」という意味で掘られたものだとすれば、
当時、鯰にも「強い」イメージがあったということになりますよね。
四夜叉は江戸時代初期に造られたものですが、その頃の日本といえば、大雑書「地底鯰之図」※1(1624)に
龍王の名称のみが「鯰」に変えられ、のちに「大日本国地震之図」では日本を地震から守るシンボルとして登場する竜が、
鯰に特定されました。また、寛永元年(1633)には江戸に大地震があり、つづけて諸国に地震発生と疫病が流行しました。
疫病を祓った鹿島の事触には、霊能者が鯰であると伝えられ、少なくとも関東地域での民間の認識では、
鯰は「恐れ」の象徴である地震と重ねていたことが見受けられます。
一方で、武家社会においては、鯰は恐れだけではなく、勇敢さや忠誠心の象徴でもありました。
『東遷基業』『北国全太平記』『會津陣物語』『蒲生氏郷記』『常山記談』には前田利家・利長、
堀直寄、蒲生氏郷らが、鯰尾兜を着用し、勇敢さを顕示する場面が記されています。※2
鯰は地震を想起させる生き物であるという概念は、天正地震を坂本城で経験した豊臣秀吉が、
五奉行の一人である前田玄以に宛てた伏見城普請の書状に端を発しています。
鯰尾形兜の着用やその所持は、秀吉周辺の武将やその子息に多いことにも関係しているかもしれません。
また、家康は利家の亡き後、利長を味方につけていたといわれています。
鯰尾兜の存在が、毘陀羅の膝の「鯰」にどこまで、影響し、反映されているのかは、
毘陀羅象の作り手の生い立ちやその環境などを掘り下げないと推測の域をでませんが、
このような背景からみても、鯰の存在は象と同様の強大なイメージとして認識
されていたと考えられます。
※1「地底鯰之図」は、江戸を中心に刊行された『大雑書』などの暦類に描かれた口絵です。
※2「鯰尾兜」は、安土時代末期から江戸時代初期にかけて流行した変わり兜のことで、直上あるいは斜め後方に長く伸ばした尾鰭部分の先端を側面から見て円狐状
に成形したものが多くみられます。
日光輪王寺宮の庭園として江戸時代初期に作庭された逍遥園には、ナマズの形をした石造物があります。
直径約70cm、よくみると三匹もいるのです。
この庭園内には琵琶湖の近江八景を模した大池があるのですが、鯰を運ぶのは難しいので「石」にしたそうです。
案内板には「鯰は地震の予知、災難除けのご利益がある」と書かれています。
鯰の石造物が作られた時期は不明とのことですが、関係者の方が京都出身の方であるとうかがいました。
琵琶湖に浮かぶ竹生島や周辺地域には、地震だけではなく、古来より洪水や雨乞いの鯰伝承が継承されています。
おそらくこの鯰の石造物設置の背景には、琵琶湖地域による鯰信仰の影響も含まれているのかもしれません。
それでは、関東ではどうだったのでしょうか。
これまでご紹介した、関東の「石になった鯰(鯰にまつわる石仏・石造物・モニュメント・要石)」をまとめますと、
茨城県の鹿島神宮、磯部稲村神社、千葉県の香取神宮、
埼玉県の田中神社、東京都の豊鹿島神社、八王子マンション前の要石の由来は古代(原始説有)、中世、近世と
様々ですが、皆、地震除け、地震抑えを主としたもので
した。他、現代に制作され石造物、茨城県鹿島神宮の大鯰の碑、
東京都池袋の鯰モニュメントについても地震にちなんでいます。
たとえば、幕末、江戸で流行した「鯰絵」をみてもわかるように、地震は地底に潜む大鯰が暴れて引き起こすもので、
平常は鹿島大明神が要石によって鯰を押込み防いで
いる、という俗信から成り立っています。
そうしますと一見、鯰は地震=悪という言葉を連想させますが、鯰絵において重要なのは、「鯰」はやがて世直しの表象とし
て捉えられるようになることなんです。
『新鹿島神宮誌』によると、「ここの地を震わす地震とは必ずしも震災としての地震だけの狭義の意味ではなく、
地の胎動、春のめざめとしての震い起しを意味する」としています。
つまり、「震う」とは「生命の地下から地上への胎動、春の芽ぶきとして万物の出発、はじめの意味があるというのです 。
「要石のおかげでこの地域には地震がない」と要石を大切にされている地域もあります。
決してマイナスのイメージばかりではないのです。
関東の石造物には、(素材が石ではないのですが)埼玉県吉川駅の鯰モニュメントは地域活性化の取り組み、
栃木県の巴波の鯰モニュメントは、干魃、洪水による鯰の伝説として制作されたものもあります。
今後、関東においても、鯰にまつわる石造物は、広義の由来によるものが増えていくのではないでしょうか。
ちなみに、輪王寺大猷院夜叉門、毘蛇羅の膝にはナマズが施されています。
この件につきましても、改めてこちらでご紹介させていただきますね。
「夷隅川の大ナマズ」は『いすみの民話』(いすみ市民話集編集委員会2008年)に収録されている昔話です。
下記は概要です。
むかし、夷隅川に棲む大ナマズが、きれいな 若い娘と酒と
食物が手に入らないと大暴れをして川沿いの村々の人々を
困らせていた。大ナマズが暴れると、たちまち水があふ
れ、川岸が削られ、山つなみが起きる。ある日も酒と食物
を与えたが、ナマズは満足はせず、娘を差し出せという。村
の人々は困り果てた。そこへ奥州に向かう途中に飯縄寺を
訪ねていた牛若丸と弁慶が現れた。そして、牛若丸が娘の代
わりになりナマズを岸辺におびき寄せ、弁慶が清水寺の大
吊り鐘を投げつけ、ナマズを退治したのである。それから
は夷隅川の水があふれたり、山が崩れたりすることがなく
なり、それを機に「鐘ケ淵」と呼ぶようようになった。
この内容は、子供用に漫画で作成された太東岬物語シリーズ(2000年)にも制作されています。
以前ご紹介した飯縄寺は、この牛若丸が立ち寄ったお寺であると伝わります。
ただ、この昔話は、民話と伝説との判別が難しいのです。
たとえば、鐘ケ淵の場所は実在するのですが、鯰を閉じ込めた大吊り鐘は、
飯縄寺境内にある「大吊り鐘」のことではなく、清水寺の「大吊り鐘」のことでもありません。
関係者や地域の方にうかがったところ、民話は史実に基づいたものではないとのお話でした。
ですが、地域の方々の取り組みにより民話が形成された例は各地域にあり、やがて伝説へ推移した事例の一つと言えます。
実際に、この鐘ケ淵を訪ねてみますと、夷隅川に架設された轟橋には「夷隅川の大ナマズ伝説」の
看板が設置されていました。この看板には、下記のように記されています。
今から八百年前、町を流れる夷隅川に住みついて、大暴れ
していた大ナマズがいた。旅の途中立寄った牛若丸と、弁
慶が、清水寺の大鐘を投げつけて退治した。というもので鐘ケ淵という名前の由来にもなっている(みさきの民話第
七話)
この看板は、岬町、岬町観光協会が設置したものですが、夷隅町と合併以降、設置当時のことや、
詳細は不明とのお話でした。ですが、轟橋の石の橋名板には、平成9年竣工と記されており、欄干には、酒を飲んでご機嫌なナマズと、鐘に閉じ込められているナマズの浮彫りが施されていました。つまりこの民話を元にしていると考えられ、
『いすみの民話』(2008年)や『太東岬物語』(2000年)の出版以前の民話を参照しているということになります。
看板に記されていた「みさきの民話第七話」の発行年が不明で、関係者の方も、
おそらく同じ著者の方だろうとのお話でしたが、少なくとも24,5年以前からこの民話が語り継がれていたのだと思われます。
書籍には、次世代を担う若者が興味を覚え、民話を通じて心の豊かさを養ってもらえたらと著者が語られています。
民話を大切にした地域の方々の取り組みが現地からも感じられました。
埼玉県吉川市では、ナマズをモチーフとした市のシンボルキャラクター「なまりん」をはじめ、食や土産、マンホール、モニュメントなど、幅広い分野で「なまずの里吉川」をPRしています。以前にも、JR武蔵野線の吉川駅前に設置されている金色のナマズモニュメントやマンホールなどを取り上げたことがありました。今回は「なまずの日」にちなんだお話です。
吉川市では、7月2日を「なまずの日」と制定しています。今年は制定6周年だそうで、5月のこどもの日には「こいのぼり」と「なまずのぼり」をクレーンで揚げる催しが話題になりました。私は直接みることができなかったのですが、この時期は「なまずのぼり」をみられる場所があるというので行ってみました。
まず、吉川駅から一つ隣の駅にある吉川美南駅。駅の改札口を出ると、ピンクに着色されたなまずのぼりが目に飛び込みます(写真①)。巨大な「なまずのぼり」は3、4年から作ったと聞きましたが、このナマズのことでしょうか…?
さらに階段を降りると、西口ロータリーには、様々な大きさの「なまずのぼり」が掲げられていました(写真②)。テレビでみた「黒色のなまずのぼり」はあたりませんでしたが、後ろを向くと、金色の郵便ポストが目につきました。よくみると、赤い屋根蓋には、ハートを作った2匹の親子がデザインされた「なまず」があるのです(写真③)。これは「なまずの日」制定5周年を記念して令和4年の7月2日に設置されたものなのだそうですよ。
市の関係者に教えていただき、市役所(写真④)や公民館(写真⑤)吉川市民交流センター「おあしす」(写真⑥)にも行ってみました。それぞれの玄関ホールを、カラフルな「なまずのぼり」が彩りを添えています。この「なまずのぼり」は、およそ700人の市内の小学生が作成したのだとか。市のシンボル「なまず」が語り継がれていく、まさになまずづくしの取り組みだと思いました。
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