美作市土居に鎮座する土居神社(写真1)。拝殿には、雨乞祈願に描いた馬の大絵馬や、子供の夜泣き封じや子孫繁栄、
安産祈願に描いた犬や鶏の小絵馬、拝む女や武者図を描いた小絵馬などが多数整列しています。
そのなかに、2点、大きさが20×30cm、14×21cmの鯰絵馬が掛けられていました(写真2)(写真3)。
岡山県では唯一の鯰絵馬ですが、神社の方のお話によると、鯰絵馬が奉納された時期や祈願内容は不明とのことです。
関連図録や先行史にも明確に示されていません(地図A)。
それでは、この鯰絵馬の祈願内容をどのように捉えたらよいのでしょう。少し考えてみました。
一般的に鯰絵馬の主な祈願内容は皮膚病です。これは皮膚に表れる症状が、
鯰に似た斑点であることからそのように伝えられています。
私が行ったこれまでの調査においても、鯰絵馬奉納の7〜8割が皮膚病祈願でした。白ナマズ、ナマズハダ、
ナマヅ以外にも、なまずはげ、瘡(かさ)、腫れもの、じんましん、でん瘋など、絵馬にみられるその内容は、いろいろありました。
また、残りの1〜2割は、子孫繁栄、安産祈願でした。
たとえば、福岡県の照天神社に奉納されている鯰絵馬は、子孫繁栄祈願です(写真4)。
これは、多産する鯰の特性にあやかったものなんですね。
つまり、鯰には安産のイメージも当然のことながらあるのです。
仁和3年創建の土居神社は、安産の神として名高い神社ですから、この2点の鯰絵馬は、
安産祈願に奉納されたとしても不思議ではないのかもしれません。
ですが、土居神社の拝殿には、比較的近代に制作された雨乞い祈願の馬を描いた絵馬が多く見られます。
また、皮膚病の瘡になぞらえて、牛に食わせて平癒祈願する牛の絵馬もありました。この点から考えますと、
この2点の鯰絵馬も皮膚病祈願に奉納されたと考えられるのです。
この場合でいえば、旱魃の影響で皮膚病を発症し、奉納した可能性も高いのではないでしょうか。
というのも、私がこれまで調査・分析してきたなかで感じたことは、原因不明とされる皮膚病の要因は、
地域に降りかかった災害(噴火、長雨、旱魃など)が影響しているのではないか、ということでした。
つまり、二次被害(農作物の不作、衛生の問題)からもたらされる栄養不足や疫病が皮膚になんらかの
異常をもたらしたと考えられるのです。地域自治体によって、災害被害の大きさや水環境の保全や修復には差異があり、
地域ごとの調査を行い体系的にまとめるという課題はありますが、
この点を深堀すれば、土居神社の鯰絵馬の祈願内容がより明確になると考えられます。
※神社の方には親切にご対応いただき感謝申し上げます。
また、今回、岡山調査時にご案内いただいた文化財保護委員の方のお便りがきっかけとなりました。
有難うございました。
絵馬の写真は掲載許可済みです。
作東町教育委員会編『作東町の絵馬』2003年
細田博子『鯰考現学—その信仰と伝承を求めて』里文出版 2018年
今回は、兵庫県小野市高田町にある「鯰坂城跡」についてのお話です。
まず兵庫県小野市高田町旧175号線沿いには、鯰坂の案内標柱があります(写真1)。
ここから古川町へと下る坂が「鯰坂」と呼ばれているのですが、「鯰坂城跡」は、この鯰坂の西側、東条川が加古川を合流する地点から、
東南へ約600メートルの丘陵の突端部分にあります(写真2)(写真3)。
地元の方にいうには、年に何回か調査に訪れる人たちがいるとのことでしたが、そのせいか山道が歩きやすく整備されていました。
文献には”北側の平坦地が主郭で、一辺焼50mのほぼ方形を呈し、周囲には土塁がめぐっている”とありました。
想像つきませんでしたが、竹林のなかに足を踏み入れてみると、早々にそれらしきものがみつかりました。(写真4)(写真5)にあたるのでしょうか。
土塁として土盛したような部分が残っていました。
鯰坂城の城主については諸説あり、『加東郡誌』には、天生年中三木別所の武将鯰権之丞といふもの居城をここに置きたりしといふ」
とあるのですが、鯰坂城の城主は、天正年間、三木別所氏の家臣鯰権之丞とも伝えられています。
ただ『小野史談』によると、明治の末期から大正にかけては、(鯰坂城跡ではなく)高田城と呼ばれていたようで、
この山林は一般に屋敷跡と教えられていたともあるのです。
このあたりは、三木合戦以降、秀吉がこのあたりで兵を渡したことにより「太閤渡し」ができたということから考えると、
現代になってから、秀吉にちなんで”鯰坂城”と伝えられるようになったのかもしれません。
この地域には、鯰坂城跡以外にも鯰伝承がいくつか存在します。
たとえば、「鯰坂城跡」から加古川を渡り西方へ車で10分ほどの八王子神社内薬師堂には鯰絵馬が掛けられています(写真6)(地図①)。
また、北方へ車で20分ほどの石上神社には、加古川の氾濫にちなんだ祭があります。
加古川と鯰には古来関係性がみられることは明らかで、そもそも「鯰坂」の由来は、
「雨が降ると鯰の表面のようにぬるぬるとなり、よくすべった。」からだそうです(『加東郡誌』が出典であると思われます)。
ということは、この地域では日常的に鯰が生息していたことを示しています。
小野文化財保護協会編『小野市の城郭』2016年
小野市史編纂専門委員会『小野市史 別巻 文化財編』小野市1996年
小野文化財保護協会編『小野市の城郭』2016年「おの ふるさと散歩(改訂版第2版)」編集委員会『おの ふるさと散歩(改訂版第版)』小野市観光協会2016年
岡山県には、江戸時代より地名が “鯰(なまず)”に変わった村があり、「鯰村之記」(東作誌)には“鯰”という苗字もみられます。
ということで、今回は、なぜ“鯰”という地名がついたのか、のまとめになります。
まず、鯰地区の吉野川中流域には、鯰城跡があります。
別名「鳥越山城(鳥越城)」のことをいいますが、江見一族が住んだ場所なので「江見城」とも言われています
(関連書籍のなかでも比較的新しい『日本城郭大系』(2012年)のみが「鯰城」と記しています)。
それにしてもなぜ“鯰”に変わったのでしょう。
地名の由来については諸説ありますが、下記のような説がみられます。
「たらいに水を入れて江見家歴代の城主の名刀を
入れたところ、ナマズが泳ぐようにうねうねと
動いて、真にナマズのようであったそうだ。
そんなことから鯰という地名が生まれたと聞く
(『作東の遺跡と民話』)。」
一方、『角川日本地名大辞典』には、江見家には織田信長・羽柴秀吉の感状が伝わるとも記されています。
地域の方曰く、鯰という名字も、侍が手柄を立てたことが関係しているとか。
かつて、秀吉に関わる武将たちは、兜や刀鐔などに鯰の形体や呼び名を取り入れていましたから、
地名が鯰に変更した理由も、秀吉からの影響が大きいように思います。
また、柳田國男氏が「物言う魚」(1934年)のなかで、東作誌から岡山県の三休淵と道善淵の件についてふれ、
「淵の主であった恠魚の名であるのを、後に伝える者が釣人の名の如く解した」と語っています。
これは、“淵の主であった鯰”は水神なので、もっと相応しい名があったのではないか“と伝えていたのかもしれません。
秀吉も、中世の頃、鯰に神性を見出していましたから、その可能性は大いにあり得ると思いました。
地域の方のお話によると、「鯰はここ(岡山県)では水神でも、ひとつ峠を越えれば、(兵庫県は)鯰料理を
知らないと嫁には行けないと伝えられてきた」といいます。
たとえば「トーテムと「命名」」(1952年)によると、トーテムは「ある天然物と自家との間に不思議の縁故連絡ありと信じ、
その物名を自分の名として、父子また母子代々襲用するを指す」とあります。そしてトーテムには、殺生と採食が禁じられていますが、
祭祀の場合は共食するとあります。
未開社会の各氏族に向けてのトーテミズムですので一概には言えませんが、
少なくとも当時地名変更を地域ぐるみで行なっていることからみても鯰は偉大な存在であったことが明らかです。
つまり、江見庄が鯰村に代わり、鯰という姓、江見城の別名が鯰城という点を考えれば、
近世の時代には、この地域にはトーテミズムの要素が大きく関わっていたように考えられます。
岡山県英田郡作東町町民室編『ふるさとを語ろう 作東の遺跡と民話(1)』作東町1983年、
「美作国の山城」編集委員会『美作国(みまさかのくに)の山城(やまじろ)』津山市教育委員会2010年、
「角川日本地名大辞典」編纂委員会編『角川日本地名大辞典 33岡山県』角川書店1989年柳田國男「物言う魚」『一目小僧その他』小山書店1934年、
南方熊楠「トーテムと「命名」」『南方熊楠全集 第7巻』 乾元社1952年
※鯰城跡の写真ですが、本来であればあるはずの、城郭の石材の一部を見過ごしてしまいました。
少し離れた方向を登ってしまったのかもしれません。鯰城跡があると言われた山には間違いがないので載せておくことにしました。
今回は、岡山県美作市にある鯰地域についてのお話
です。なぜ“鯰(なまず)”という地名がついたのか
考えました。
先日ご紹介した県道5号線(吉野川沿い)に設置され
ている黄色の背景色に“凍結注意!”の標識もこの地
域にありますが、この標識に鯰が描かれた由来の一
つには、この地域名にちなんだことが伝わります。
ですが、“鯰”と呼ばれるようになったそもそもの由
来は、書籍によっても様々です。
たとえば、『作東町の歴史』には、
古くは「生津(なまず)」とあり、「六月下旬ごろになるとなまずが多くとれたので、
それが地名になった、あるいは江見家の鯰小太郎によって生津を鯰と改めた。
とあるのですが、『岡山古代地名探索』には、
ナマズがどこにでもいた場所ではなく、城のあった地区である以上、
ある程度の高さがあったもので、「鈍階(たましな)」であっただろう。
鈍く緩い斜面で、緩やかな高地の意味で、「なまじ×」に変化したものが、
さらに「なまず」に変わって行く。
とあります。
一方で、鯰村をご案内いただいた方のお話によると
この地域の名前は、江戸時代から“鯰”に変わったそ
うで、もともとは、“江見庄”と呼ばれていたといい
ます(地図には鯰村と表記しています)。そうしま
すと、どのような経緯で”鯰”と呼ばれるようになっ
たのか、ますます謎が深まります。
津山盆地周辺には鯰伝承が重なっていますが、“鯰”
の近隣地域にある三休淵や道善淵には、水神鯰を示
唆した研究史や書籍がみられます。『作陽誌』には
由来の詳細が記されていませんが、たとえば、この
地域にもこうしたイメージはあったのではないでし
ょうか。
ほかにも『作陽誌』の鯰村には “其水底自然に温泉
を生す夏目年魚を探り”の箇所があります。
解釈本によると「むかしお才という芦河内の百姓与
兵衛の下女がいたが、この女がどんな原因からかこ
の淵に身を沈めて死んだので、ここをお才が淵とい
うようになった」とあるのですが、年魚については
ふれられていませんし、”どんな原因”だったのか詳
細が不明です。ご案内いただいた方にうかがったと
ころ、人柱を指すのだろうとのお話でした。確かに
水害に苦しめられた村を救うために人柱として犠牲
になった女性が鯰に変容した説話が散見されます。
前々回ご紹介した滝川の地域にも、鯰ではないので
すが、人柱の代わりに地蔵を埋める事例がみられま
す(「轟池の地蔵」)。もしかしたら、この地域で
も村のために犠牲となった女性の生まれ変わりに、
水神鯰が出現したものとして伝えられていたのかも
しれません。
ところで、『作陽誌』には、“鯰”という苗字もみえます。
次回はその視点から考えてみたいと思います。
参考書籍:
『作東町の歴史』1967年
『新編 作東町の歴史』
1979年
『作東の遺跡と民話』1983年
『岡山古
代地名探索』2012年
岡山県には、三休淵や道善淵以外にも、鯰にまつわる説話の伝わる淵や池が存在します。
前回同様、”鯰が人の名を呼んだり、話しかけたりする”という内容です。
今回は、三箇所の淵や池についてご紹介します。
まず一つめの徳善淵は、美咲町棚原地域の吉井川が東南に向って曲がりくねったところにありました(写真⑤)。
今は、河川改修などで浅くなっていますが、以前は「恐ろしいほど」深い淵だったようです。
まんが日本昔ばなし〜データベースにもあるように、この淵の説話は複数の書籍にあり、地域ではよく知られている淵です。
二つめの大ヶ池は、真上に山陽新幹線が横切ります。『太田吉岡村誌』(1924年)に書かれている説話ですが、
山陽新幹線が開業する以前に出版されていますので、当時とは違う風景かもしれません。(写真⑥)
三つめは、瀬戸町宗堂地区の新田踏切付近に、かつてあった日置池です。(写真⑦)
現在は埋め立てられているのですが、この地域在住の方によると、昔は毎年産卵時の6月になると、鯰が増えすぎて困るほどだったそうです。
いずれの淵や池の説話にも、鯰は、淵の主や神の使めとして登場しています。
舞台が淵の場合は、殺生禁断譚を示唆していますが、ため池の場合は、その付近の田畑は、ため池から一定用水で常に潤されていたことを表します。
作物も豊かな実りをもたらしていたことでしょう。
つまり日常的に目にしていた鯰の存在は、まさに恵の表象でもあるのです。
参考書籍
『作陽誌下巻』1913年、『久米郡誌』1923年、『太田吉岡村誌』1924年、『岡山の伝説』1969年、『吉備の伝説』1976年、『勝央今昔 滝川のほとり』1978年、『郷土の文化資料』1980年、『てんねえ話—岡山県邑久郡長船町の昔話—』1981年、『柵原町史』1987年、『日本伝説大系』1987年、『やなはらの民話』1994年、『おかやま伝説紀行』2006年
岡山県には鯰にまつわる説話が多くみられます。
柳田國男氏は「物言う魚」のなかで
「東作誌の巻三に、鯰が物を言ったといふ話を二つまで載せている。」と岡山県の事例を取り上げています。
事例の一つが“勝田郡古吉野村大字川原の三休淵、梶竝川筋の堂ノ口といふ所の淵”、もう一つが、“勝田村大字余野の道善淵”の説話です。
いずれも、釣った鯰が大声を出すため、驚いた釣り人が淵へ戻したという内容です。
まず『東作誌』が江戸時代に刊行された地誌ですので、この地域では、古くから鯰は話題になりやすい生物だったことがよみとれます。
その”三休淵”は、岡山県勝央町を南へ流れる滝川にあります。
地域の方のお話によると、現在の滝川の形態は、一部埋め立てられ、だいぶ狭まっているといいます(写真①)。
また、『東作誌』には梶並川と書かれていますが、今も昔もこの川は、“滝川”と呼ぶそうです。
市役所にも確認したところ、梶並川と滝川と合流する箇所が栄町で、離れて流れているため、
いくら昔であっても川の名前が変わることは考えにくく、河原地区に流れる滝川は昔から滝川だということでした。
なかなか場所を特定できなかったのはそのためだったかもしれません(※1)。
もう一つの淵、”道善淵”は、岡山県美作市芦河内に流れる吉野川(県道5号線沿)にありました(写真②)。
ここにも釣った魚が名前を呼んだ説話が伝わります。
「物言う魚」には、全国の神的存在である水魚にまつわる説話が多く取り上げられています。
そのなかで鯰は、代表魚として紹介されているわけではありませんが、
少なくとも岡山県に伝わる多くの鯰伝承は、この三休淵や道善淵の事例に端を発し、
他地域の伝承にも影響を与えているように感じられます。次回は徳善渕の鯰話をみていくことにしましょう。
(今回有難いことに地域の方とご縁が繋がりご案内いただきました。おかげさまで三休淵と道善淵の場所を特定することができました。
ありがとうございました。)
(※1)『勝央今昔 滝川のほとり』(1978年)にもその旨記載あり
柳田國男「物言う魚」『一目小僧その他 』 小山書店1934年
この標識に描かれている鯰は、なにを示しているのでしょう。
先日、県道5号線(吉野川沿い)を通りかかったときに偶然みかけたのですが、
黄色の背景色に鯰と“凍結注意!”の文字があるので、少なくとも地震をイメージしたものではなさそうです。
もしかしたら、この地域一帯は、“鯰(なまず)”という地区ですから名前にちなんだのかもしれませんよね。
と、気になりまして、道路整備関係者に聞いてみたのですが、標識の由来は不明でした。
ただ、考えられる理由として、“鯰という地名にちなんだのでは”ということと、
看板業界用語で“急カーブになっている道路のことを「なまず」と呼ぶからなのでは”と、教えていただきました。
確かに地図をみると、折れ曲がるような急カーブが示されていました。
運転中“黄色背景色に鯰の標識”をみかけたらくれぐれもご注意くださいませ。
今回は、岡山県美作市にある“鯰の標識”についてのお話でした。
今回は、香川県大川町田面に伝わる説話のご紹介です。下記は概要です。
讃岐で二番目に大きいといわれる田面次郎池に、長さ二、三間もある大きななまずがすんでいた。あるとき、阿波の鵜匠が粟飯のにぎり飯を食べていると、背の低い小僧が現れ、「何の用事で讃岐へ越すのか」と聞くので「田面の大池のなまずを捕らえにきた」と鵜匠が答えた。すると、小僧が悲しそうな顔をしたため、残りの握り飯を与えたのだった。その後、鴻池の祠の堤から鵜匠が五、六羽の鵜を使い、鯰が追い回され、ぽっくりと浮き上がった。鯰の腹を割くと粟飯がいっぱい出てきた。鵜匠はあの小僧がこの池の主の大なまずの精であったと気づいた。その後、大なまずの怨霊のたたりか、大豪雨のため一晩で決壊した。
このように「幻の田面次郎池」の説話には、 “小僧に化けた鯰”が登場しています。
ですが、これとは別に、もう一つの説話が実はあります。それが人柱の説話です。
大雨が降るとすぐ堤が切れてしまうため、水の神の生け贄として人柱をたてた、という“鯰が住みつく前”の”お話”が付いているのです。
”人柱”とはなにをさすのでしょう。
「人柱」とは、堰などの工事を完成させるために犠牲として人に捧げること、またその人を指す(『日本民俗大辞典』)。
”人柱”をテーマとした説話は、よくよく調べてみると、過去に史実か否かの論争も繰り広げられるほど全国各地に見受けられています。
香川県にも人柱伝説が多く語られているのですが、その理由は、風土的特性が関与していると考えられます。
というのも、田面次郎池はため池です。
ため池とは「降水量が少なく、流域の大きな河川に恵まれない地域などで、
農業用水を確保するために水を貯え取水ができるよう、人工的に造成された池のこと」を指しています。
香川県は瀬戸内海に面した温暖で雨の少ない土地柄ですので、むかしの人々は、
稲作に欠かせない水の確保には、たくさんのため池を作り、時には様々な雨乞いにも奮闘していたようです。
そもそも農作物の豊凶は死活問題です。ですから、水害を恐れる人びとの葛藤と築堤への執念たるやすさまじいものがあります。
それにも関わらず、何年もかけて築き上げた堤防工事が、一度の大雨のせいでいとも簡単に決壊するわけですから、
独特の世界観があって当然です。人柱伝説譚は、そうした人々の血の滲む努力と絶望感をリアルに伝えています。
田面次郎池は今は幻の池となっていますから、なかなか詳細を確認することができませんでした。
ですが先日、地元の研究者や関係者の方々のおかげで、祀られている鴻池さんと、田面次郎池の場所をご案内いただくことが叶いました。
ほとんどの書籍が、人柱譚にはふれていないなかで、「鯰」が登場する人柱伝説は、管見の限り、全国でもこの“田面次郎池”だけでした。
おそらくは、先人が農作物に適した環境作りに苦心惨憺した歴史を後世にどう伝えるかというときに、
悲話として残そうとした貴重な事例だと思いました。
参照
『大川町史』1878年、『日本伝説体系第』1982年、『さぬきのおもしろ伝説』1991年、『ぶらり讃岐民話とむかし話総集編』1992年、『讃岐のため池誌』、農林水産省HP
今回は、香川県の財田地域に伝わる鯰塚の説話をご紹介します。
鯰塚は、前にご紹介した香川県仲多度郡琴平町のなまず岩にも程近い場所にあり、
土讃線黒川駅を降りた少し西方の位置に祀られています(写真①)。
鯰塚の説話については、古くは『西讃府志』(1898年)にみられます。
それ以降も多数いろんな書籍が刊行されていますが、概要は下記のような説話です。
むかし、財田上黒川の亀渕には、人や家畜を襲い食べてしまう怪物が住みついていた。
このあたりは、阿波と琴平を結ぶ街道すじにあたるため、夜道、旅人が災難にあうことがたびたびあった。
ある時、旅人がその化物に襲われた。喉首を食い破られ息絶えていたことを知った村人たちは仇討ちに向かう。
途中阿讃山地の頂上で昼弁当をすませると、一人のお坊さんが現れ弁当を分けてくれと頼まれ、
粟飯のむすびを分け与えるとお坊さんは礼を述べ消えてしまう。
夜になり、村人たちがおびき出した怪物を捕まえると、身の丈一間半もある大なまずが死んでいた。
裂けた腹の中からは粟飯がはみ出ていたので、村人たちは荒戸の峰で出会ったお坊さんは、
この鯰が化けていたのだと気付き、背筋が寒くなった。
その後、大なまずを焼いて土に埋め供養したとされるのが鯰塚であり、
この時に大鯰が流した血が亀淵一面を真っ黒に染めたので、黒川と呼ぶようになった(※1)。
鯰にまつわる説話には、このように殺生を止めるために旅僧に化けた鯰が頻繁に登場します。
そして「鯰の腹から粟飯がでてきた」という場面もよく見られます。
大半の鯰は水神を示しているのですが、この鯰塚の説話のなかでは(もともと鯰が悪さをしていたため、仕方のないことかもしれませんが)鯰は“怪物”として語られています。
振り返れば、琴平町のなまず岩の説話にも鯰は怪物として登場していました。
この地域から東端に伝わる三本松の水主神社の説話も同様でした。
つまり、徳島県と香川県は隣接する県ではあるものの、鯰の印象が真逆なのです。
鯰は相当な厄介者だったようです。なぜなのでしょう。
その疑問は次回ご紹介する大川町田面に伝わる人柱伝説とともに解明していきたいと思います(香川県の鯰伝承もまとめます)。
(※1)『西讃府志』1898年、1929年『財田町誌』1972年『日本の伝』1976年『香川の伝説』 1979年『財田のむかしばな志』 1982年『日本伝説体系第』1982年『さぬきのおもしろ伝説』1991年など
亀渕(写真②)
徳島県阿南市を流れる福井川。
大宮八幡神社にほど近い露田渕には、一風変わった昔話が伝わります。
福井川の一番下流に位置する露田の渕は、福井川のうちでは 最も深いスリ鉢形の渕で、大きな白鯰とカッパが住んでいると子供達から恐れられていた。明治の中頃、夏の夜更にこの石橋を通りかかると、川下の淵の闇の中から……ホギャーホギャーと悲しそうな赤ん坊の泣き声が聞こえてきたという。 人々はそれは赤ん坊を抱いて渕へ投身した母親の乳房恋しさに泣く赤ん坊の声だとか、いや八幡さんの森の白狸に化かされたのだと、さまざまに噂しあった(※1)。
夜更けに淵から赤ん坊の泣き声が聞こえるとはずいぶんと恐ろしい話ですが、
以前お話したように、その「鯰」が、声を発する特質を持つギバチやギギであれば、
思い込みであったことがわかります。
この昔話にも「大正の末頃になり、鯰の息の音だということになった」と記されています
(余談ですが、昔話に鯰が「怪物」と表現される理由は、実はここにあると考えられます)。
さて、これまで徳島県にまつわる鯰伝承6件
(山川町の鯰神社、山川町の歌碑、石井町神宮寺の鯰絵馬、福井川・勝浦川・那賀川の伝説)を
ご紹介しました(鯰伝承配置
図参照)。全体的にみると、鯰は水神の位置付けなのですね。
洪水被害の史実から発祥した鯰伝承こそ見られないものの、山川町の鯰神社の伝説では、
鯰は厄災の神様であるのと同時に、水神の役割が与えられていることを伝えていま
す(『川田町史』1930年)。例えば、『川田町史』には、「川田邑名跡志」(1788年)
が収録されているのですが、ここには、粟飯を盗み食いする鯰を懲らしめると女房が病になってしまう
説話が記され、鯰は福の神だったことが描かれています。
そもそも、鯰はなぜ福の神なのでしょうか。
説話のなかで貧しい百姓の夫婦の粟飯を食べてしまう鯰は確かに悪者ですが、
盗み食いされている間は不思議と豊作で、夫婦の暮らしも次第に豊かになっていく様子がみられます。
つまり、鯰が存在するということは、作物を潤す恵みの雨が適度に降っている状況を示しているのです。
まさに福の神です。また、「鯰神を祀ることで癜風に効
く」と付記されています。これは、当時人々を悩ましていた皮膚病の発生が、
旱魃による水不足で不作が続くことにより、害虫や栄養不足などが要因であることを裏付けているのです。
ほかの伝承についても同様です。
岩津橋袂の歌碑、鯰絵馬奉納の神宮寺、福井川、勝浦川、那賀川に伝わる昔話についても、
溜池などの整備が行き届いていない時代には、鯰の存在が、いかに重要であり、
だからこそ、鯰が淵の主、あるいは水神として語られるようになったことがよみとれます。
一方で、鯰神社の関係者の方より、かつて安政南海地震の時に倒壊し住人が亡くなった以降、
地震の魔除けとして鯰は神格化されるようになったこと、
むかし「鯰が暴れたから地震がおきたのだ、吉野川へ近づくな」といわれ続けたことがあるということをお聞きしました。
少なくともこの地域において鯰と地震のイメージは、後年になり付随したのではないでしょうか。
つまり、鯰は時代とともに、旱魃・水害から地震の神様へと変容したと考えられます。
(※1)『ふるさと福井』1979年、『ふるさと福井のむかし話』1993年、『阿波の民話』2010年
(※2)詳しい内容は「鯰の怖い昔話シリーズ」として、改めてご紹介します。
今回は、仁木伊賀守が居城していた大野城に伝わる鯰伝説をご紹介します。
大野城は、かつて徳島県上大野の城山に築かれていました(※1)。(書籍により違いがみられるため、下記に要所をまとめます)
土佐の長宗我部(元親)の大軍が阿波へ攻め込み牛岐城を落とした。そして上大野城を攻め、城主・仁木伊賀守は殺され、奥方と姫は断崖から那賀川へ身を投げた。それから何年か経った。ある日、漁師が大きな白ナマズを二匹みつけたので網で救おうとすると、突然白ナマズが空中へ跳ね上がった。その時、舟とともに漁師もひっくり返り、川の底へ沈んでしまった。それ以来、白ナマズを見たら自害した奥方の化身だからすぐに引き返さなければならないという(※2)。
現在の大野城跡には、城山神社が鎮座しています。
ここは、前回ご紹介した“杉森さん”から、那賀川を超え車でおよそ15分の場所にあります(直線ですとさらに近い位置にあります)。
海抜143.4mの城山に登ったところ、約10〜15分ほどで辿り着くゆるやかな山道でした。
大野城哀話として伝承されているので寂しい場所を想像していましたが、山頂には青々し木々が生い茂りとても穏やかな空間でした。
大野城伝説の鯰は、水神というより川の主というイメージで表されています。山頂から町並を眺めながら、
何故奥方や姫の化身が“ナマズ”だったのかを考えました。
というのも、鯰にまつわる説話には、鯰が旅僧や町娘に化けることはありますが、
武将の身内や関わる人物に化ける設定はあまりみられないからです。
たとえば、熊本県七霊宮の要川の合戦で敗れた平氏の女官七人が、要川から滝壺に身を投げ“ナマズ”に化けた説話や、
栃木県の飛山城が豊臣秀吉の命により攻め滅ぼされ燃え落ちたとき、姫が断崖から鬼怒川の渕に身を投げ“白ナマズ”になった説話は存在します。
ですが、いずれもその後鯰は川の主となり地域の人々を”助ける”立場として伝承されているのです
(書籍により祟り話として表現されることはありますが)。
そもそも鯰は、古来より、水神や女神(弁才天(市杵島姫命)をはじめ、豊玉姫、世田姫(淀姫)、乙姫、(百襲姫命)など)ととても縁が深い生物です。
“女性と鯰”いう括りで考えれば自然かもしれませんが、疑問は残ったままです。
ちなみに、勝浦川と那賀川は、平行を描くように水田地帯に流れている河川です。
そこから南下した地域には福井川が流れ、その地域にも鯰伝説が伝わります。その地域も深堀したいと思います。
(※1)城山は、日本最古・四億二千万年前の花崗岩質の岩盤で形成され、県の天然記念物に指定されています。
(※2)『大野の昔ばなし』1985年・『阿波の国 阿南石の伝説』1986年・『ふるさと阿南むかしばなし』、
2005年・『阿波の民話』2011年参照(書籍によっては「娘」の存在が省かれている説話や奥方と娘の身投げした淵を強調した説話があります)
上大野城、城山、鷹留まりヶ淵の伝説と記されている書籍もありますが内容はほぼ同じです。
今回は、徳島県勝浦郡勝浦町沼江に伝わる「杉森さんの白ナマズ」という民話をご紹介します。
沼江と石原をつないで流れる谷川のほとりに杉森さんという 祠があった。昔は、ウナギ、フナ、ナマズ、ギギンなどがいたが、白ナマズが出てきたときはほかの魚が逃げてしまう事から杉森さんのお使いだといわれ、見たら魚捕りをやめるようになった『勝浦の民話と伝説』(1989年)。
この民話は『阿波の民話』(2012年)にもほぼ同じ内容で収録されています。
民話ですし、実在する地名はあるものの、場所の詳細は不明のため、“杉森さん”は架空のものとさえ思っていました。
ですが、ある日のことです。
なんと「“杉森さん”を知っている」方と「“杉森さん”の話をした。」という方からご連絡をいただいたのです。
しかも、有難いことに、その方は実際に“杉森さん”を訪れ、現在は祠はなく石碑とともに祀られていると教えてくださいました。
後日説明いただいたとおりに現地を訪れますと。確かに“杉森さん”は実在していました
。今は谷川のほとりではなく、鮮やかな緑の山や畑を背に祀られています。地域の人たちに大切にされていることがよくわかりました。
そもそも“杉森さん”とはなんでしょう?
そばの用水路には勝浦川が流れています。かつてはフナ、ナマズ、鯰の親戚のギギなどがいたようです。
”白ナマズが出てきたときはほかの魚が逃げてしまう”と書かれているところを読みとると、
よほど鯰が巨大だったのか、白いナマズが珍しかったのか……。
推測ですが、鯰が“杉森さんのお使い”ということですから、
地蔵菩薩のようにも見受けられますが“杉森さん”は、水神を示していると考えられます。
とすると、水害被害(洪水)の歴史が関係しているのではないかと思うのです。
周辺地域には、那賀川も流れています。この地域にも、鯰にまつわる説話が伝承されています。
次回は、その説話もご紹介させていただきながら、深掘していきたいと思います。
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