鯰絵
<信仰-faith>
擬人化したナマズにより笑いを起こし、被災者を救う役割を担った鯰絵。その鯰絵には、鹿島信仰以外にも、様々な“信仰”がみられます。
たとえば、地震除けのご利益があるサハラ文字のある鯰絵は“護符”の機能を果たしていました。
当時人びとは何に祈っていたのでしょうか。
擬人化したナマズにより笑いを起こし、被災者を救う役割を担った鯰絵。その鯰絵には、鹿島信仰以外にも、様々な“信仰”がみられます。
たとえば、地震除けのご利益があるサハラ文字のある鯰絵は“護符”の機能を果たしていました。
当時人びとは何に祈っていたのでしょうか。
古来人びとは、度重なる災害や疫病の流行に対して常に不安を抱いていました。
江戸では日常的にまじないが行われ民間信仰が普及しました。“サムハラ”もその一つです。
この信仰は江戸時代に遡りますが、内容は多岐にわたり表記や意味にも差異があるため、
今回は、地震を機に流行した鯰絵にみる地震避けのサムハラについてお話をしたいと思います。
たとえば鯰絵「地震よけのお守り札」(鯰絵1)。
東西南北と中央の方位を守る密教の五大明王の名とともに、王(西方)•軍茶利明王(南方)
•金剛夜刄(やいば)明王(北方)•大聖不動明王(中央)を表す梵字が記されています。
この黒く独特な書体をした五つの梵字は「家の四方と天井に貼ると、家がつぶれないもしくは家には何もない」
という呪文を表しています。この鯰絵そのものが地震除けの護符として作成されていることから、
地震の発生からまもないまだ余震に恐れを抱く時期に出たものと考えられています。
ここで気になるのは、梵字の下に描かれている鹿島神の影響です。神剣を立てているのは、
ナマズ(地震)を剣で抑えるためですから、サムハラと地震を抑える鹿島神との組み合わせで相乗的な効果を
期待しているのかもしれません。ですが鯰絵の場合、鹿島神の力が及ばず、地震を防げなかったわけですよね。
つまり、その存在がもう絶対的ではないことを示しているように感じられます。
もともと鹿島地方には、古来大地震が少なく、地震とナマズが関連づけられたのは近世中期以降と伝えられています。
たしかに関連史料(地誌、紀行本、小説、啓蒙書)を調べてみると、要石に「鯰」が付記されていない書が多くみられました。
現代においても、東京で要石を祀る地域の聞き込みでは、ナマズが暴れたという事実ではなく
「この要石があるから地震(ナマズ)が起きない」と伝えられているのですよね。
だからこそ、江戸で大地震が発生した安政2年当時、江戸の人びとは恐れを抱き常に不安に駆られていたというわけです。
鯰絵「鯰筆を震」(鯰絵2)には、万歳の祝詞や「万歳楽」のまじない、梵字が記された護符、雷神の絵など、
ありとあらゆる地震防御を願うまじないや護符が並んでいる様子がみられます。
地震のメカニズムが未解明だった時代、まじないや民間信仰に依存するのは自然なことです。
サムハラやユーモラスに描かれたナマズの姿を表現したこれらの鯰絵は、人びとの心を癒したのではないでしょうか。
そうした人びとの心情を反映した鯰絵が多くみられます。
参考書籍・文献
宮田登『ミロク信仰の研究』未来社1975 年
宮田登ほか『鯰絵—震災と日本文化』里文出版1995年
加藤良治「弾よけ護符〈さむはら〉雑稿」『西郊民俗156号』西郊民俗談話会1996年
大島建彦「サムハラ(本来は漢字表記)神社の現状」『西郊民俗157号』西郊民俗談話会1996年
国立歴史民俗博物館編『鯰絵のイマジネーション』2021年
安政2年の江戸大地震時に流行した鯰絵は、「地底に住む大鯰が地震を起こす」という俗信や民間信仰に基づいて作成されています。
そのなかには、要石ではなく、“剣が鯰を押える構図”が三種類あります。
まずひとつが「鹿島要石真図」。ここでは、鹿島大明神に剣で押えられている地震鯰が描かれています(図版①)。
ふたつめの「鯰を押える鹿島大明神」についても、地震鯰が剣で押さえられています。
ここでは、復興景気で儲けた職人らは感謝し、被害を被った金持ちは地震が再び起きないように、
それぞれ祈願している様子が描かれています(図版②)。ここで、注目したいのが、三つめの「地震御守」(図版③)です。鹿
嶋神が地震の大鯰に剣を突き立てられている“鯰”の形体をよくみると「龍」のような尾を持ち、とても「鯰」にはみえませんよね。
この「地震御守」は、龍からの変容を表す貴重な構図だと思います。
というのも、もともと、地震は日本をとりまく龍が原因とされていました。
たとえば「大日本国地震之図」(寛永元年)には、龍蛇が形成する輪の内には、行基式による日本図が描かれていました。
そこには、頭と尾の重なる常陸鹿島に剣が打たれています。これが要石です。
この図は、その後、『いせこよみ』や『大雑書』という毎年刊行された暦占い書に掲載され、広く認知されました。
もちろん、口絵「地底鯰之図」をモチーフとした鯰絵も作成されたように、鯰絵「ぢしんの辨(べん)」にも、剣を刺している
龍が描かれています(図版④)。
これまでお伝えしたなかでも、剣に関わる鯰伝承はあります。たとえば、宮本武蔵自作とされる刀剣の鐔「瓢箪鯰図鐔」や、
名古屋市の徳川美術館に所蔵される「鯰尾藤四郎」、岡山県の江見家歴代の城主の名刀が、
ナマズの形体から生まれた「鯰」という地名など、秀吉に関わる武将たちにより、
兜や刀剣などに鯰の形体や呼び名を取り入れているケースがありましたね。ただここでは鯰を押えるというより、
むしろ鯰のもつ勇ましさを強調していました。
一方、長崎県の諫早神社の『諌江史料拾録』(1693年)や佐賀県大町八幡神社の『西郷責實録』(1697)からは、
刀鍛治の作った錐によって死んだ鯰の罪が課せられた説話などが伝えられていました。
また、兵庫県石上神社には「なまずおさえ神事」には、盗まれた宝剣が大鯰に変身した説話も伝わります(※1)。
いずれにしても、地域に降りかかる“川の氾濫”を抑える役割が共通項にみられることがわかります。
このように、これらの鯰伝承は西日本にみられる伝承ですが、
少なくとも、鯰絵にみる“剣がナマズを押える構図”からみえることも “剣が災害の防御をしている”のが明らかです。
そして、この時期には、地震の原因が龍であるという概念が、まだ民衆の意識にあったと考えられます。
※1由来の発祥は、天文11年(1542)または文化6年(1809)と二説
今回は、非常に深い関わりのあるナマズと馬のお話です。
鯰絵には、伊勢神宮の神馬が目につきます。
というのも、江戸時代、伊勢神宮を信心する多くの人びとは、生涯一度はお伊勢参りに行きたいという意識を常に持っていました。
そのため、神馬は、”鯰絵”のなかでシンボル的な存在として登場しているのです。
たとえば、鯰絵⑴「鯰にのる伊勢の馬」をみてみましょう。図版真ん中上部にある詞書きにはこうあります。
人袂に 此毛出る也、
是神の 守らしむる也、
ありがたや ありがたや
この場面では、伊勢大神宮神が地震の災害から救おうと、被災地に神馬の毛を振らせていることに、
人々が感謝している様子がうかがえます。右下をよくみると、地震で助かった人びとが、袂に神馬の毛をみつけて喜んでいます。
これは、災害時に伊勢神宮の神馬の毛を袂や懐に入れた者が助かったという噂が流れていたからなのです。
この「鯰にのる伊勢の馬」は、完成度の高い作品です。
また、災いをもたらす地震鯰をこらしめたいという人びとの気持ちをよく表しています。
地震を起こした鯰が神馬に押さえ込まれているので、かなり人気があったのように思います。
ですが、実際には、ほかの構図の方が注目されたようにも考えられます。
というのも、伊勢神宮の神馬が描かれている鯰絵は、ほかに3種類あるのですが、
現在各機関に保管されている同じ鯰絵を比較すると、同じ構図でも刷りの違うものがかなり多くみられるからです。
たとえば、
⑵「八幡宮・太神宮・鹿島大明神」では、雲のぼかしが灰色か青色の違い、
⑶「神馬と鯰」では、鯰の顔が緑色か青色の差異がみられ、
増刷されたことが読みとれます。
さらに注目したいのは
⑷「鯰を蹴散らす伊勢神宮神馬」です。この鯰絵は、
①詞書きがあるものとないもの、
②神馬の首輪の色が白と黄色のもの、
③逃げる鯰着物の模様線数の差異、
④神馬の風呂敷模様の差異、
⑤詞書と毛の重なりのあるものとないもの
など、5つ以上の差異がみられます。
ここまで多くの差異がみられると、同じ構図のものを、別の絵師が作成した可能性が考えられるからです。
この場合も、売れたから増刷した、もしくは、売れると見込んだ数名の絵師が競って制作したということが推測されます。
鯰絵は、安政江戸大地震時に流行した錦絵です。災害時に、憧れの伊勢神宮の神馬を待ち望む人々の姿が多くみられました。
古来”馬”は神の乗り物として貴重な存在でした。その霊力は、やがて別の場面でも、ナマズと深く結びつくことになります。
参考書籍
宮田登ほか『鯰絵』里文出版1995年
古河歴史博物館編『天変地異と世紀末』1999年
今回は、「鹿島の事触」と鯰の関係についてのお話です。
下記は『日本民族伝説全集』収録「鹿島の事触」の概要です。
橘子という女性が、安政大地震で傷ついた者を助けてもらおうと、鹿島神の神
令者を訪れた。その神令者は、額がせまく、異臭を放ち、2本のひげをもつ男
だった。男は「耳目鼻を切るぞ」と呪文を唱える。すると、どこからともなく
「耳目鼻を切らなくても、あの子は助かりますよ」という声が聞こえ、神令
者は1枚の護符にくるまった鯰になった『日本民族伝説全集』。
「鹿島の事触」を読み進めていくと、橘子が訪れた宿屋はとても怪しげな雰囲気で、
亭主や神令者が醸し出す不気味さがじわじわと伝わります。
橘子も、はじめは不開扉から現れた神令者と名乗る男に恐怖感を覚えるのですが、
それでも「幽冥界と通じているに違いない」と信じました。
橘子が救いたかった「あの子」がその後助かったのか、後日談は触れられていません。
最終的には、鹿島の事触に神令を出すというその神令者が鯰男だったのですが、
それほどまでに鯰の霊力が影響力を持っていたことや人を救いたいという橘子の強い意志がよくわかる内容です。
ただタイトルがなぜ「鹿島の事触」なのか気になりました。
というのも、鹿島の事触では、年の初めにその年の吉凶を占うために全国を触れ歩きます。
元々は、寛永期に諸国に地震や疫病が続いたために、
鹿島神の信者が神輿を担いで諸国をまわり疫病を祓ったことがきっかけであると伝えられています。
ですが当時金儲けをする偽禰宜が現れたために、幕府に取り締まわれるほど、流行していた民間信仰だったとも言われているのですよね。
だからこそ、疑念を抱きながらも、橘子は神令者を訪ねたのだと思います。
冒頭には“鹿島の事触”の禁令にさからって訪れた、とも記されていますから、よほど心理的に追い込まれていたのでしょう。
こうした当時の状況を鮮明によく表している説話です。
一方、安政大地震時には鯰絵が流行しました。鯰絵には「鹿島の事触」が取り入れられた構図があります。それが「鹿島恐」です。
「鹿島恐」の画面中央には、白の浄衣に鈴と鳥万燈を持つ事触れの姿をした鯰が立ち、その周囲で職人や閻魔の子が踊っています。
これは、鹿島踊りをモチーフにして作られています。
ですが、鯰絵になると全体的にポジティブで、詞書には「世直しの地震は いつしか跡もなく よき事ふれの かしましきかな」と
記されています。
つまり、世直しの地震がおさまり、新しく復活した社会には素晴らしい将来が約束されていることを示唆しているのですね。
鹿島の事触信仰により鯰絵が地震よけの護符にもなっていったと伝えられる一方で、
実際には鹿島神宮とは何の関係もないという説もありますが、
鯰絵が流行以降もさらに盛んになり、「その神令を出すものが鹿島にいる」と、
人々がますます信じるようになったことも不思議ではありません。
「鹿島の事触」は、具体的な内容が記されていないにも関わらず、橘子をはじめ、人々の心に多大な影響を与えていたその信仰を、
間接的且つ巧みに表しているのです。
※鹿島踊りは、鹿島の事触れが年頭にその年の吉凶を占い全国を触れ歩いた事に始まり、
やがて正月の門付芸になり、歌舞伎の所作事にも取り入れられたものです(『鯰絵』1995年)。
図版:国会図書館蔵
今回は「なぜ東日本には鯰絵馬がみられないのか」についてまとめたいと思います。
まず、前回まで、西日本に浸透していた鯰絵馬信仰が、東日本にはなぜ広まらなかったのか、
思うところをお話しさせていただきました。
それは、おそらく東日本では、皮膚病治癒祈願の図像として「絵馬」ではなく、別の「何か」が浸透したからではと推測しました。
そこで、鯰絵馬信仰が主に浸透していた江戸時代後期に、東日本
で皮膚病に効験のある信仰を探るべく、人々の皮膚病祈念を表す浮世絵を2つとりあげました。
1つめが疱瘡絵です。疱瘡絵は東日本に幅広く流布し、見舞品として贈られた赤摺りの錦絵です(多色摺りもあります)。
ダルマや獅子舞い、宝船などの縁起の良い絵柄が描かれ、疱瘡平癒に呪的な効力を発揮する護符として使用され、後に廃棄されるものです。
二つめは奪衣婆信仰です。(奪衣婆信仰に皮膚病平癒祈願を求めた人々の様子を知るために、
ここでは「奪衣婆を描いた錦絵」を取りあげています)
奪衣婆といえば、「三途河のほとりで死者の衣を剥ぎ、恐
ろしい形相をした老婆」が思い浮かぶことと思います。
現代では、頭に鉢巻をし垂れた乳房や白い垂髪の胸をはだ
けた鬼婆のイメージでしょうか。奪衣婆は『仏説地蔵菩薩
発心因縁十王経』に言説があり、平安時代末期以降は子授
けや安産、咳止め、虫歯などの治癒にご利益のある存在へ
と親しみ深い身近な神へ変容したと伝わります。そして
嘉永2年には皮膚病祈願にも人々が押しかけ奪衣婆に縮
緬や綿・手拭いなどを奉納する様子が『藤岡屋日記』にみ
られるのです。
このように、東日本で皮膚病祈願の信仰として流行した疱瘡絵も奪衣婆信仰についてお伝えしましたが、
形態やそれぞれの護符と奉納の内容に差異がみられ、鯰絵馬信仰が疱瘡絵や奪衣婆信仰に変容したと断定することはできません。
ですが、疱瘡(皮膚病)平癒に呪的な効験があることを期待されていたという意味では、
鯰絵馬同様の性質を持っていると言えるのです。
次は別のアプローチ法として鯰絵をとりあげます。理由は、奪衣婆信仰が流行し、
奪衣婆を描いた錦絵が出版されたわずか数年後には「鯰絵」が大流行しています。
鯰絵が震災時に流行となったのは、民衆の関心を引くテーマが多く扱われていました。
驚くことにおよそ200種類以上はある鯰絵のなかで、皮膚病に関するテーマが1種類しかありません。
おまけに奪衣婆をテーマにした鯰絵は1枚もないことなど疑問が多いのです。
ずっと不思議でしたが、唯一『発心因縁十王経』を想起させる鯰絵がみつかりました。
それは「地震冥途ノ図」という鯰絵です。
「地震冥途ノ図」には、震災で死亡した者たちが地獄へ落とされ、冥途に旅立つ様子が描かれています。
赤鬼と青鬼が人々を閻魔大王の前につれていき、大王がその者たちを裁く。
大王の周囲には、左手に木簡をもつ司命や人頭杖を置いた太山府君という四眷属が大王の補佐をし、
地蔵菩薩は地震鯰をこらしめようと杖を振り上げていることがみてとれます。
まさに『発心因縁十王経』をイメージして描かれたものだと思います。
ちなみに、奪衣婆と思われる人物は、図版の右下に確認することができます。はだけた胸元は見えないのですが、
長く白い髪、頭の鉢巻きと白い着物からみる奪衣婆とおぼしき老婆は、苦しそうに布団に顔を伏せた男性の背に手を置いています。
まるで亡舎の身ぐるみを剥ぎ取ろうとしているために声をかけているようです。詞書きには
「(老婆)いまに なをる、すこしの しんぼう だ」
とあります。
これは、咳の病を治癒しようとしていることを示しているのかもしれません。
皮膚病を示すこともなくただひっそりと目立たないように。
これはどういうことかといいますと、同じ鯰をモチーフとしているにも関わらず、
鯰絵馬が「皮膚病」で、鯰絵では「地震」と結びつけ、鯰のイメージを区別しているということを示しています。
つまり、作者や版元が、鯰絵に奪衣婆を「敢えて取り入れなかった」ことが考えられ、
その必要があった「事情」が浮かび上がってくるのです。
それこそが、「東日本では鯰絵馬が浸透しなかった」一因だと考えられます。
今回は
「なぜ東日本には鯰絵馬がみられないのか・続編」についてお話させていただきました。
鯰絵「鯰への見舞い」は、お医者さまが病気を患う鯰を診察して
いるところに、復興景気で儲けた職人たちが見舞いに訪れそれぞれにお礼を述べている様子が描かれています。
「鯰への見舞い」には2種類の異版があるのですが、掲載可の図版で比較させていただきます。
まず、一番手前に座っている男性をご覧ください。下記の二種類に分類されます。
「箱と手ぬぐいの距離が重なっているもの」
「箱と手ぬぐいの距離が離れているもの」
つまり、これは別版です。
鯰絵の異板は比較すると楽しいのですが、この2枚の興味深いのは、鯰の着物や布団の模様や人間の表情、詞書きの書体も違うところです。
描いた人が違うのでしょうか。売れたから増刷したのか、
売れると見込んで競って制作したのか。国内の博物館や美術館13機関に14枚もありました。
(国内鯰絵所蔵機関の調査2014年調べにて)どちらにしろ、異版があるということは、
売れたということで、ナマズが”医者である”ということに大きな意味があったことが明白です。
というのも、かつて、ナマズは病に罹る人びとの”薬”として扱われていました。
たとえば、ナマズにまつわる俗信には、下記のように皮膚病に関するものが多くみられます。
「ナマズを食べると、癜ができる」「咳止めには頭を黒焼きにして服用する」、「ナマズの頭は瘤に効く」、
「癜をこすると治る」、「癜に霊験がある」、「御灰をもらうと瘤が取れる」、「利尿に効果がある」など。
上記をみると明らかなことは、皮膚病に効能がみられるということです。
皮膚病といえば、西日本には鯰絵馬信仰が浸透していました。
鯰絵馬の奉納方法や皮膚病の内容は、地域によりばらばらです。
たとえば、香川県のある神社には、鯰絵馬を奉納し治れば年の数だけ小石を供えてお礼参りをする慣例、
福岡県では患部に霊水をつけるなども。口伝も多く、和歌山県の鯰絵馬を調査したときには
「昔、髪の白い女の子がいて鯰の絵馬により黒くなったという言い伝えがあった」と住職さまからうかがいました。
福岡県
のある神社では「昭和初期まではよくみた」といいますし、現代ではその伝承が薄れてきていることもよくわかります。
これは、鯰絵馬信仰が祈念による霊力を求めていたことがその要因ですが、
とはいえ、熊本県のある神社では、平成に描いたものもありました。
ちなみに、江戸時代の末期に入り大成した伝統化粧を体系づけた本 として名高い『都風俗化粧伝』にも、
皮膚病の「なまず」を治す方法が詳細に載っています。
それだけに癜病は世の人々に広く周知された悩みであったことが裏付けられるのです。
細田博子「鯰絵馬に込められた病平癒について」『國學院雜誌』118広報課 2017年佳作受賞(査読有)
鯰絵「まるやけ土ぞう荷」には、鯰の親子が茶店でお団子やおしるこを食べる様子が
描かれています。
画面上段には、
まるやけ 土ぞう荷
雨ふり往来 しるこ
など、店の品書きをもじって地震後の世相を表現していますね。
今回は、鯰の「食」についてお話させていただきます。
ナマズは、タンパク質を豊富に含み栄養価の高い魚ですが、その料理法は、蒲焼き、天ぷら、煮付、鍋、蒲鉾などが一般的です。
鯰と食といえば、古くは866年の日照り時に、京都の民衆が鯰を食べたことがはじまり。
かつては高貴な身分の人たちが食していたことが、御所に仕える女官の記した日記からも伝えられています。
その一方で、阿蘇信仰、弁財天信仰、虚空蔵菩薩信仰などにより神性を与えられていた鯰は、
地域によっては現代でも禁忌鯰として扱われています。
(「鯰を食べると祟られる」といった民話や伝説が各地にあるのは、神性であること
が由来となっている場合が多いです)
「鯰の神性」の内容にはそれぞれに地域性がみられます。
人身御供を献上ありきとして、鰌と鯰のナレズシをお供えするお祭りもあるくらいですからね。
それを1年を通して村の行事として漬けていくのですから祭事に行う修祓やお神楽、巫女による舞奉納だけでなく、
1年を通したすべてが「神聖」です。
人身御供の詳細も掘り下げたいところですが、資料がみつかりません。実際はどうだったのでしょうか。
あるHPで
「白蛇が現れて人肉を求めたが、鰌鮨が人肉の味に似ているとの神のお告げによりこれを
献上し儀式が現在に引き継がれている」という記載をみつけました。
参考元が不明でしたが、妙に納得してしまいましたが。
(参考元はおそらく『近江栗太郡志』からでしょうか…)
かつて、地域によっては、産卵期には水田や川に遡上し、それを狙って捕獲され、
ときに人々の食卓に上がっていたという鯰。現在は全国的に食としての需要があるとは
言い難く、ある地域では鯰が店に並ぶことが少なくなったといい、またある地域では、
郷土食として鯰を養殖し村おこしを行なったものの次第にそれも難しくなり消滅したといいます。
今も昔も鯰を食することは、特別なことかもしれません。
「まるやけ土ぞう荷」東京大学総合図書館蔵
鯰絵「五大力」には、歌舞伎「五大力恋緘」を題材にして、深川芸者の子万と武蔵武士の
源五兵衛に見立てた弁財天と恵比寿が地震についてかけ合う様子が描かれています。恵比寿と弁財天ですから、
七福神を表しているのですが、先日ご紹介した「繁昌たから船」「浮世栄しんよしハらかりたく」も、遊女を弁財天に見立てたものです。
ですが、本来、弁才天に関わっていたのは”ナマズ”ですが、鯰絵からはその関係性がよくわからず、弁財天もあまり登場していません。
ということで、今回は、弁才天と鯰の関わりを少し深掘していきます。
弁財天の表記には、「才」と「財」がありますが、この「財」の字を用いるのは、室町時代の頃からです。
明治初めの神仏分離令により、弁才天を神体とする神社がそれぞれに古来の神々を祀ることになりました。
現代では弁財天の「才」の表記が寺社によって様々ですが、福徳・音楽の利益によって福徳利財に繋がることを強調したい場合には、
弁財天とする寺社が多いのです。
そもそも弁才天のルーツをたどれば、古代インドにおいてサラスヴァティー河を神格化したことにはじまりますが、
弁才天が主尊として祀られた平安時代に、本地垂迹の説による神仏混淆で日本古来の神と習合しました。
弁才天は、本来水の神であるため、日本の水神とも習合しやすかったと言われています。
鯰が弁才天と関わっていたのは「弁才天」の「才」の字を用いた室町時代からです。
その頃、鯰には、水の神である市杵島姫命の眷属として神性を与えられていました。
ちなみに市杵島姫命は天照大神と素戔嗚尊の誓約によって誕生した神であることから鯰にまつわる寺社の祭神には
市杵島姫命であることが多いのです。
弁才天、弁財天、市杵島姫命、にはそれぞれの地域により、鯰との伝承に違いがあるので、
当時の江戸では「市杵島姫命の眷属としての鯰」があまり浸透していなかったように考えられます。
「五大力」国会図書館蔵
笹間良彦『弁才天信仰と俗信』雄山閣1991 年
鯰絵「繁昌たから船」は、商売繁盛•家内安全を祈願する正月の「七福神を乗せた宝船」の札をもとに作られています。
宝船には、七福神(恵比寿は大工、大黒は土方、毘沙門天は鳶、弁財天は遊女、布袋は屋根葺き、
福禄寿は瓦版売り、寿老人は左官)が乗っています。
図版上部には「長き世の遠の眠りのみな目覚め波のり船の音のよきかな」をもじった回文歌が書かれ、
様々な災厄を船で水に流すという着想から描かれた宝船とうまく構成されています。
回文歌とは、正月あるいは正月2日の夜にめでたい初夢を見ようと「ながきよの」ではじまる吉夢に転じるためのおまじないです。
室町末期には知られていたといわれていますが、紙に書いて枕の下へおいて寝るなど日本各地で伝承されています。
上から読んでも下から読んでも同じ、回文という表現により、たとえ悪夢を見ても元に戻して見
なかったことにするという発想の元作られた
呪歌であるからこそ鯰絵に取り入れられたのでしょう。
よくみると、宝船には七福神を復興景気で儲けた者たちに置き換え、松は銭を束ねた長銭、鶴は魚の干物、
亀はするめ、波は瓦に見立てられ、宝船の船体は大鯰、舳の龍は火災の炎、帆は倒れそうな土蔵は棒で支えられています。
「繁昌たから船」は国内では3枚の確認をしているのですが、縁起のいい構図です。
異版もあるので人気が高かった鯰絵であったことが考えられます。
「繁昌たから船」国立国会図書館蔵
加藤光男「鯰絵総目録」『鯰絵』里文出版1995 年
鯰絵「安政二年神無月二日の夜大地震二つ木」には、蓄財する気構えや心積もりを枝状に並べ「木」に語呂合わせした
構図で作られています。そして木の下には、鯛を抱える恵比寿のかわりに鯰を抱える鹿島大明神と、
打ち出の小槌を持つ大黒のかわりに木槌を持つ職人が描かれています。
一方で、鯰絵には、恵比寿が、鹿島大明神の前で詫びを入れている場面も多くみられます。
というのも、現代にみる”恵比寿”は、商売繁盛の神、福の神として捉えられていますが、かつて、
10月は神々が出雲に出かけるため、恵比寿は、その留守を預かる重要な責務を担う神として知られていました。
ところが、地震鯰の監視を怠ったことから、今回の地震が起きてしまったのです。
ですので「安政二年神無月二日の夜大地震二つ木」をみると、小判がたくさん実っている様子からみても、
まさに金の成る木、幸先のよい印象がありますよね。
この鯰絵は、震災後の世相を表していますが、人々が世直しを望み始めた頃に作られたたとしたら、
被災した人びとにとり、”夢を与える護符”の役割を果たしていたように感じられます。
「安政二年神無月二日の夜大地震二つ木」国会図書館蔵
宮田登・高田衛監修『鯰絵 震災と日本文化』里文出版1995年
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