鯰絵
<災害 disaster>
鯰絵のなかの“ナマズ”は“地震”をイメージしています。
江戸に浸透していた鹿島信仰に由来するイメージであることから、地震を抑える役割を担う“要石”が多く登場しています。
鯰絵を通して“地震”以外に擬人化された“災害”と人びとの関心度を深堀したいと思います。
鯰絵のなかの“ナマズ”は“地震”をイメージしています。
江戸に浸透していた鹿島信仰に由来するイメージであることから、地震を抑える役割を担う“要石”が多く登場しています。
鯰絵を通して“地震”以外に擬人化された“災害”と人びとの関心度を深堀したいと思います。
鯰絵には、「地震・雷・火事・親父」に掛けて作成された「出現苦動明王」(鯰絵⑨)があります。
ここには、壁土の崩れた土蔵の上に鎮座した不動明王を洒落た「苦動明王」が描かれています。
この「苦動明王」は、額が「親父」で、顔が「鯰」で、体が「雷」、背中に「火」を背負い、
「世の中の恐ろしいもの」すべての要素を一つにして、予期できない自然災害の脅威を表しているのですね。
前回では、こうした地震・雷・火事・親父(強風)それぞれの大きさが、
安政江戸地震時にどのように話題となっていたのかをお伝えしました。
今回はそのなかでも、二番目に位置する「雷」の恐ろしさについて、鯰絵以外の浮世絵と比較しながら、
まとめていきたいと思います。
そもそも何故、雷を「怖い、恐ろしい」と思うのでしょうか。それは、強烈な爆音と鋭い光、稲妻が原因ですよね。
まず、「音」の恐ろしさは、『絵本四季花』(1801年)喜多川歌麿画、「夕立景」歌川国貞画(1825年)
などにその様相をみることができます。
たとえば『絵本四季花』(図版⑩)をみると、雷の音に泣く子供や耳を塞ぐ女性が描かれています。
雷の音が響き渡っているのでしょうか。ここでは耳に伝わる雷の音に対しての恐怖感がみてとれます。
一方“鯰絵”には、怖がる人びとが描かれてはおらず、詞書きに多く記されています。
【鯰と雷⑴】(鯰絵②)「地震雷過事親父」の詞書きには、「其時たいこ(太鼓)ハ打折てしまう」、【
鯰と雷⑵】(鯰絵⑦)「安政二年十月二日地震出火後日角力」の詞書きには、「
大こ(鼓)やくも(雲)ハふしやへやりやした」など、「太鼓の音」として音が強調されています。
それでは「稲妻」の恐ろしさはどうでしょう。
たとえば、葛飾北斎「冨嶽三十六景 山下白雨」(1830〜33)には、鋭利な角度の稲妻が描かれています。
この描写により、夕立に走る稲光の大きさとともに雷の恐怖感が強調されていますよね。
一方“鯰絵”では、「地震廻兆注」(鯰絵⑪)にみることができます。
この図版は、地震の揺れが起こる前に、「光り物が空を飛んだ」という故事を題材にしているのですが、
左下には曲がった五重塔が描かれ、視覚的にも「光り物」と物恐ろしい表情の神馬と男(異人)が
その恐怖感を煽っているようにみえます。
さらに鯰絵「両四時角力取組」(鯰絵⑫)には、鹿島大明神を行司に、要石と鯰が相撲をとり、
鯰が負けている場面が描かれています。
ここでは画面上部にある取り組み表が記され、二日目の取組みは「大鯰揺出シ」と「通り物飛光山」と
地震発生時および直後の状況が、力士のしこ名を「稲妻」とすることで強さを表しています。
このように、人びとは、聴覚と視覚から雷の「畏怖感」を受け入れていたということがわかります。
鯰絵を日本に知らしめたコルネリウス・アウエハント氏は、雷が地下の鯰と同一視される素地が充分にあると指摘しています。
加えて『肥後國誌』には、当時噴火による地雷や噴煙を「龍」に重ねていたことが記載されています。
先日お話した阿蘇山噴火時にも、雷は発生しました。ここでは、山巓で「奇光」が照り輝き、
地震とともに地割れが発生したことが指摘されています。『歴史のなかの大地動乱』によると、
噴火と火山灰が地上を暗がりわたらせ、黒雲が立ち上がり、火山雷の放電がはじまるとあります。
そのとき人びとは、その際雷電による震動と地震の振動と同じであると捉えられていたと伝えています。
ようするに、災害のメカニズムが分からない時代、地震と雷は常に関連づけられていたというわけです。
雷は、人びとの聴覚、視覚、振動という体感を通し、強大な威力を発揮していた「地震」に匹敵する畏怖感を人びとに与えました。
少なくとも、安政地震時には、爆音とともに稲妻が多く目撃されたと考えられるのです。
だからこそ鯰絵にみる「地震・雷・火事・親父」のなかで、雷は、二番目に位置付けられ話題となっていた所以かと考えます。
参考書籍:宮田登ほか『鯰絵』里文出版1995年
保立道久『歴史のなかの大地動乱』岩波新書
コルネリウス・アウエハント『鯰絵—民俗的想像力の世界』せりか書房1979年
太田記念美術館編「江戸の天気」2021年
「地震・雷・火事・親父」は、世の中でおそろしいものを順番にした表現です。
前回は、鯰絵にはこれをテーマにしたものが多くみられることをお話しましたが「雷がなぜ二番目なのか」という疑問が残りました。
今回は、その点をさらに掘り下げていきたいと思います。
まず、二枚組の「大一座二日のよなをし」(鯰絵⑥)をご覧ください。
ここには、地震で被害を受けた米屋•酒屋からの金の請求に、支払おうとはしない鯰(地震)や火事、雷の様子が描かれています。
右版の右上部には、雷が
「地しんかミなり火事おやじと、おなじなかまの四
天王、人のおそるるなかまうち」
と言いつつも、地震鯰に肩を“叩かされて”います。
「安政二年十月二日地震出火後日角力」(鯰絵⑦)においても、雷は地震にかなわないものと噂した場面が描かれています。
ここでは、浅草寺の濡れ仏•雷門•五十塔が人間に見立てられ、患者として骨継の治療を受けています。
というのも、地震は浅草寺に大きな被害を与えたからなのです。
たとえば「浅草寺大塔解釈」(鯰絵⑧)にあるように、浅草寺五重塔の九輪が大きく曲がっています。
一色刷りの「おどけはなし」(鯰絵⑨)では、「地震•雷•火事•親父」に洒落て、
地震の後の様子を見物にいった若者たちの掛け合いせりふ仕立てられ、下記のように、災害の大きさが語られています。
あの五十の塔を見ねへ、先のハうが大そう曲った
「イヤイヤ、すこしだ、「ナゼ、「九輪だも] のを雷 「夕アの雨ハつよいあめで、そのうへかミなりさまのおそろしさ、そして、アノ、音ハ何たろう「あれか、アリヤアしんどうというものだ」
つまり、安政の江戸大地震時の被害時には、「浅草寺の雷門の雷神は倒れ、五重塔の九輪は曲がった」と、
いうことに注目が集まっていたのですね。それほど地震の強大な威力に人びとは驚いていたのです。
ほかの災害の被害をみてみましょう。
たとえば「火事」。安政地震の被害範囲は、本所・深川・浅草・下谷など、江戸東部の南北に広がる下町低地とされています。
そのなかの火災は37ヶ所でみられ、その焼失面積は武家地・寺社地・町方を合わせておよそ約2.2平方㎞と推定されています。
つまり、この地震による二次災害としては、それほど広い範囲に拡がってはおらず、焼死者も圧死者の例より少ないのです。
また「親父」については、一般的には一家の大黒柱として重んじられ、権威を持っていたものを指しますが、
実は「強風」を表していたという説があります。
仮に「強風」のあおりによる火事の被害を踏まえたとしも、鯰絵のなかでは、話題には上ってはいません。
ようするに、鯰絵にみる災害の威力においては、地震>雷>火事>親父(強風)が成り立つというわけです。
雷は、地震にかなわないと二番目に食い下がっています。
ですが、火事や親父(強風)より恐ろしいと思えるほどの「具体的な被害」が不明のままです。
参考書籍:宮田登ほか『鯰絵』里文出版 1995年
北原糸子『地震の社会史』吉川弘文館 2013年
「鯰と雷」には、どのような関係があると思いますか?
鯰は一般的に「地震」を象徴しているので、ここでは「地震と雷」の関係と言うほうが、イメージしやすいかもしれません。
安政江戸大地震時に流行した「鯰絵」はその関係性をとてもよく表しています。
というのも、200種類を超える「鯰絵」のなかに「雷」を描いた構図をよくみかけるのです。
ざっくり数えただけでも27種類はありました。鯰と関わりの深い「鹿島神宮の要石」よりも登場回数が多いのです(※1)。
「鯰絵のなかの雷」については、前回にも少しふれましたが、今回は、人びとが「鯰と雷」をどのように捉えていたのか、
さらに踏み込んでいきたいと思います。
まず、鯰絵の「鯰と雷」が描かれているなかでも、もっとも多いシリーズが、相撲や拳遊びなどの構図です。
大津絵節や唄にのせた鯰絵特有の、“洒落の利いた構図”が多くみられます。
たとえば、「見立大地震角力取くみ」(鯰絵①)、「鯰と火事の相撲」、「鯰と雷の相撲」などは、
地震を示す鯰と雷が、相撲をとっている構図となっています。
また「地震雷過事親父」(鯰絵②)や「浮世四案鈔 震雷火災心得の事」などは、地震鯰と雷と火事が、
酒を酌み交わしながら近況を語り合っており、そこに「親父」が顔を出して、彼らの話を聞いています。
いずれにしても、「誰」が一番恐ろしい存在であるかを競い合う場面です。全体的には「地震・雷・火事・親父」を
テーマにしたものが多く、この順番については、“世の中でおそろしいものを順番に並べた表現”であるわけです。
ですが、雷がなぜ二番目なのか、ずっと気になっていました。
増刷したことを示す「色版の構成の異なるもの」を調べていると、
「地震けん」(鯰絵③)や「どらが如来世直しちょぼくれ」(鯰絵④)、「
けんのうた はやしことバ」(鯰絵⑤)など、けん遊びシリーズや唄、大津絵節に絡めたシリーズの図版に、
異版が多くみられます。つまり、容赦なく襲いかかる災害に対し嘲笑しつつも、
被災者の共感を得るような構図に当時は人気が集まっていたようです。
ですが、まだこれだけでは「雷がなぜ二番目なのか」という疑問が解消できません。
「宝暦大雑書万万歳」(江戸時代)には、雷の時の呪文が書かれているといいます。
ということは、雷は頻繁に発生していたものと考えられますし、落雷で火事になることもあるでしょう。
三番目の「火事」については説明がつきます。
やはり、雷がなぜ二番目なのでしょうか。
そのヒントは、「大一座二日のよなをし」(鯰絵⑥)にあるようです。
【鯰と雷⑵】へつづく
(※1)国内鯰絵所蔵目録(2014年版)による。名前だけのものは含みません。
参考書籍:宮田登ほか『鯰絵』里文出版1995年、古河歴史博物館編『天変地異と世紀末』1999年
今回は、二つの鯰絵「風流葉唄尽」と「地震御守」についてのお話です。
まず「風流葉唄尽」の図版には、芸者姿の鯰が三味線を引き、それに合わせて雷が端唄を唄う場面が描かれています(図版①)。
鯰の表情は奇妙に歪み、不気味な雰囲気を醸し出していますね。
実は「風流葉唄尽」は、安政2年の地震時に作られたものではなく、
翌年8月下旬の台風や豪雨による洪水被害発生時に作られたものです(『鯰絵』 1995年)。
分類も鯰絵ではなく、参考資料として扱われています。鯰絵として解釈した書籍や所蔵機関もありますが、
私は鯰絵に分類しました。
といいますのも、もともとは、鯰絵として作られた版木に、翌年端唄の部分を加えた可能性もあり得ると
考えたからです(※1)。
そこで「風流葉唄尽」の鯰はなぜ地震ではなく、水害の象徴として制作されたのかを考えました。
まず江戸では、1722年(浅草川)、1729年(小石川)に、はじめて鯰の確認、また、
多く見られるようになったことが伝えられています(『魚譜』『日東魚譜』)。
そして、1782年に上演された歌舞伎「暫」にて、鯰坊主の台詞(「おれが今この髭をちっとばかり動かすと、
この秋のような地震がするぞ」)から、既にこの頃には、鯰が地震を表象
する概念が民衆にあることが読み取れます。
一方で、鯰伝承において西日本地域では、地震より水害にちなんだ事例が多くみられ、
鯰は、龍(蛇)と同じく水神の性質を備えています。ですが江戸の鯰伝承では、
水害や水神にちなんだ事例がありません。
ですので、安政2年の地震の翌年に、鯰絵に関わった絵師達が、水害の表徴として鯰を扱うことは考え難いのです。
もしかすると「風流葉唄尽」の作者は西日本地域出身か、もしく
は関連した人物が関わっていたのかもしれません。
もう一つの鯰絵は「地震御守」です(図版②)。
「地震御守」は、鹿島大明神に、剣で押さえられた地震鯰の前で、
京都•小田原•信州•伊勢で地震を起こした鯰が謝罪しています。詞書には、
鹿島神の御託宣が記され(札を柱に貼れば家は潰れない)ていることから、護符の作用を示しています。
よくみるとこの鯰には、本来存在しない腹板が描かれているのです。
頭部も独特の形体をしていますが、体だけ見ればまるで龍のようです。
これは、龍に比敵する頑強な力を鯰に見出した場面と考えられるのです。
そもそも、古来、日本では大気現象一般の表象は「龍」でした。
しかし、鯰は地底を揺るがすほどの威力を持つとされていたことから、
やがて、龍と同等であると捉えられるようになったのです。寛永元年(1624)には、
地震と鯰が大雑書「地底鯰之図」(毎年刊行された暦占い書)にて龍王の名称のみが「鯰」に変えられ、
のちに「大日本国地震之図」にて鯰に特定されたと伝わります。
この時期が、地震に対しての「恐れ」の象徴が龍から鯰への変換期であり、
そして「地震御守」は、その変容が読み取れる図版だと考えられます。
「地震御守」と「風流葉唄尽」は、国内鯰絵所蔵24機関のうち、それぞれ1、2箇所と少なく、
同一様式の図版も見当たりません。メッセージ性の強い鯰絵だと思います。
(※1)鯰絵は、奉行所が九名の絵草紙問屋を逮捕し、出版が中止になり版木が打ち壊されているため存在しません
(『鯰』)
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