和歌山県の各地には、皮膚病平癒祈願によるナマズ絵馬が信仰されてきました。
現代では行方が分からない絵馬もみられます。
そのなかで「西牟婁郡の絵馬」の記録が3件あるのですが、前回お伝えした「湯の峯・東光寺」はそのうちの一つ。
絵馬の行方が不明でも、その地域の風習は残っているのではないかと思い訪れましたが、結局手掛かりがみつかりません。
残りは「龍神村宮代」と「日置川町」にあったとされる絵馬の行方です。
今回は、この二つの地域の絵馬についての報告です。
まず「龍神村宮代」(写真1)。
宮代という地域にある唯一の薬師堂が熊野本宮大社の近くにあると、市役所で聞いた住所を頼りに訪れました。
幾度か繰り返され昭和37年に再建された薬師堂には「東光寺 薬師堂」の寺号額が掲げられていました(写真2)。
地元の方にお話を聞いたところ、「ナマズに由来していることは聞いたことがない」とのこと。
さらに、設置されていた謹告板の御利益には、厄除け、耳病、乳の出はありますが、皮膚病は記されていません。
すると、地元の方が「皮膚病なら龍神温泉かなあ」とぽつり。
なんでもこの地域は元々は龍神村の区域だったそうで、もしかしたら詳細が分かるかもしれないと、
現地に行くことを勧められ、少し北へ向かうことにしました。
龍神村では、地元に根付いた郷土料理のお店「ほったて小屋」にてお世話になりました(写真3)(写真4)。
おかみさんがこの地に嫁いだ頃のお話を聞かせていただきつつ、ナマズについても伺いましたが、聞いたことがないとのこと。
その後、同地域の市役所を訪れ、宮代薬師堂のお話もお聞きしましたが、旧新龍神村含めナマズ絵馬の行方や
伝承は不明という結果となりました。
もう一つの「日置川町の薬師堂」は、大瀬という地域にありました(写真5)。
市によると、むかしそこには集落があったとのこと。
地元の方のお話では、この地域は、道祖神が多いそうで、そばに流れる日置川水系の将軍川ではウナギもナマズもとれるといいます。
皮膚病のことは聞いたことがないとか(写真6)(写真7)。
ですが『日置川町誌』をみると、大瀬の隣地域には、昭和のはじめ頃、皮膚の難病などに効果のある石碑があると記載があります。
ほかの記録でも、西牟婁郡日置川町には「(薬師堂)百襲姫命にナマズの絵馬を奉納すると
癜に霊験あるとナマズの絵馬を神に献ずる」と伝えられています。
考えられることは、前回お伝えした「湯の峯・東光寺」同様、熊野参詣のルート「中辺路」に薬師堂が確認
されていることが要だと思います。たとえば、これまでにも紹介した中辺路町温川・大氏神社にて確認したナマズ絵馬。
この地域では、皮膚病を罹った人は、七種類の煎った穀物を供え、御礼参りにナマズ絵馬を奉納する慣習があります。
また、独自のナマズ伝承が伝わる龍神宮が鎮座している龍神山は、熊野の入口にあるといいます。(地図参照)。
慣習は違っても、皮膚病平癒祈願は、熊野詣とも関わっていたのでしょうか。
そうすると、もう少し時代は遡る話なのかもしれません。
つづく
参考書籍
萩生田憲昭「鯰絵馬と癜病との関わり」『ナマズの博覧誌』誠文堂新光社2016 年
野堀正雄『祈願にみる民間療法』近畿民俗学会 1980年
龍神山編集委員会編『龍神山とその里山』2007年
鈴木棠三『日本俗信辞典 動・植物編』角川書店1982年
細田博子『鯰考現学』里文出版2018年
和歌山県は、近畿地方の南につきでる紀伊半島の南西部にあります。
面積の8割以上を山地が占め、温暖で雨が多い地域もあり豊かな森が存在しています。
このように自然環境に恵まれた和歌山県には、ナマズ絵馬の記録が数多く報告されています。
これまでにも多くの事例をご紹介させていただきましたが、実は場所が分からず、
まだ訪れていない伝承地もありました。
たとえば、西牟婁郡湯の峯(現在の和歌山県田辺市)・東光寺(写真1)。
そこには、かつてナマズ絵馬があったことが報告されていますが(『祈願にみる民間療法』1980年)、
それ以外の情報が得られないままでした。そこで、実際に現地を訪れました。
「東光寺」は、日本最古の温泉として名高い湯の峰温泉に隣接していました。
湯の峰温泉といえば、説経・小栗判官物語で知られる「小栗判官蘇生の地」。
「小栗判官物語」は「東光寺」と極めて関係が深く、由来記にも記されています。
諸説あるようですが、足利時代、毒殺され重病の身となった小栗助重(小栗判官)が、
照手姫らに支えられ(餓鬼阿弥の姿になった小栗判官は土車に乗せられ)熊野の湯の峰温泉にたどり着いた。
熊野権現薬師如来の加護と霊泉に浴するとみごと復活し、小栗家再興を成し遂げたという物語(写真2)です。
「東光寺」は、古来「難病をお救い下さる薬師様」として多くの人々の信仰を集めており、
そのなかには、皮膚病も含まれていますし、小栗判官が湯治したと伝えられる「つぼ湯」は谷川の中にあり、
浴槽は長い年月をかけ自然に出来た天然の岩風呂です(写真3)。
湯に浸かると病は確かによくなる、完治しなくとも湯に浸かる事により痛みや疼きがやわらぐと
伝えられてきました。
かつては、ハンセン病など、皮膚を病む人がこの温泉に湯治に来ていたといいます。
さらには、ナマズと馴染みが深い豊臣秀吉が、天正18年に本堂の大修繕を行ったと伝わるので、
やはりナマズ絵馬ともなにかつながりがあるのでは?と思いましたが、関係者にうかがったところ、
ナマズ絵馬は見たことがないし、話を聞いたこともないとのこと。
調べたところ「東光寺」は、明治36(1903)年5月火災により焼失し、現在地に再建されています。
明治初期の湯ノ峰温泉村「和歌山県紀伊国熊野湯ノ峯村温泉場之図」をみると、
かつて広い敷地内に鎮座していた「東光寺」の北側に薬師堂が建てられていたことがわかりました(写真4)※1。
これまでお伝えしてきたナマズ絵馬の中にも、田辺は、大氏神社、闘鶏神社の絵馬(現在はありません)、
隣接する日高郡・奥谷薬師堂と、ナマズ絵馬が存在している地域です。
その中では明治時代に奉納された絵馬もいくつか残されていました。
地図には示していませんが、田辺市上秋津にある龍神宮にも皮膚病伝説が伝わっています(写真5)。
結論として、西牟婁郡湯の峯・東光寺にかつて確認されたナマズの絵馬の行方は不明のままですが、
火災前の時代には、原因不明の癜病(ナマズ病)を患った人たちが、熊野詣の際に、湯ノ峰の地に立ち寄り、
ナマズ絵馬を薬師堂に掛けて行ったのかもしれないと思いました。
(※1)同地域の周辺案内図には、薬師寺が記されていました。
地域の方にお聞きしたところ、東光寺がある場所だとのこと。
参考書籍
萩生田憲昭 2016 「鯰絵馬と癜病との関わり」『ナマズの博覧誌』
誠文堂新光社
野堀正雄(『祈願にみる民間療法』1980年)
安井理夫『小栗判官物語』私家版2010年
「瓢箪と鯰」と聞くと、猿が瓢箪で鯰を押さえる画を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。
兵庫県旧赤穂郡矢野村には、下記のような昔話が伝わります。
なにが昔、さる昔、猿が三匹とんできて、先の猿も物知らず、後の猿の物知らず、いっち中の小猿が、
よう物知って、なまず川へとびこんで、なまず一匹へさえて、手でとるもかわいし、
ひょうたんで押さえて、灯芯でくくって、麻がらでいのて、地蔵の前へ持っていて、
ちゃっきりてっきり切って、あなたも一切れ、こなたも一切れ、一切れ足らいで、一盛り買うて、
汁にて吸やれ『日本昔話通観』(1978年)。
この昔話は、1932年発行の『播州小河地方の昔話』を元に作られたものですが、
話というより親達が子供を引きとめるための歌だったようです。鯰を「ひょうたんで押さえて」と
語っていることから、ここでは瓢箪が、鯰を押さえる手段として位置づけられていたことが読みとれます。
瓢箪は、これまでにご紹介した鯰伝承の中でも、様々な場面でみられました。
そして、下記2−4の鯰伝承は「瓢鮎図」がモチーフとなっていました。
1. 「瓢鮎図」(①京都府 退蔵院)
2. 「瓢箪鯰図鐔」(②岡山県 武蔵資料館所蔵)
3. 「鯰押さえ」(岐阜県 杭瀬川流域の祭③④⑤)
4. 「瓢箪鯰」(滋賀県 大津絵の「猿の瓢箪による鯰押え」⑥)
よくみると全てが西日本地域の伝承ですよね。
それぞれの由来も地震ではなく「瓢鮎図」とのつながりの方が濃いのです。
ですので、冒頭でお話しした兵庫県の昔話も、おそらくはその影響が強いと考えられます。
「瓢鮎図」は、室町時代に如拙が足利義持の命により作成した作品です。
小さな瓢箪で大きななまずをいかに捕えるかという禅の公案を描いたもので、
そこには瓢箪を両手に持った男が描かれています。確かに、瓢箪の口は小さくて鯰は入りそうにないです
し、男の瓢箪を持つ両手の位置からすると、これから鯰を押さえようとしているようにみえますよね。
一方で、鯰の形体が鯰らしくありません。
「鮎」と記されていることからみても、この時代の鯰が未知数の存在であったことがうかがえます。
「瓢鮎図」は、京都府 退蔵院 (妙心寺)にはレプリカが飾られ(国宝の原本は京都国立博物館に寄託)ていますが、
宮本武蔵自作とされる刀剣の鐔「瓢箪鯰図鐔」にも関係しています。
というのは、武蔵が妙心寺住持の愚堂東寔禅師のもとへ参禅に足を運んでいた際に「瓢鮎図」を
目にしたといわれているのです。
武蔵がどのような意図を持ち、作成したものかは不明とされていますが、江戸時代の武家社会において
、刀剣は重要な贈答品の一つであり、古来西日本地域では、鯰は神性を与えられています。
武蔵が「瓢鮎図」を通し、高貴な位置づけであった鯰の姿を鐔に施したとしても不思議ではありません。
また、岐阜県 杭瀬川流域にみられる祭には、民衆に寄り添った「瓢鮎図」の関わりがみられます。
片山 八幡神社、大垣 八幡神社、綾野 白髭神社それぞれの祭りでは、
「瓢鮎図」をモチーフにした「鯰押さえ」が設置された山車が登場します。
鯰を押さえる赤い頭巾をかぶった老人が、笛•鉦•太鼓の賑やかなお囃子にのせ瓢箪を両手で振りかざし、
暴れ狂う大鯰を押さえようとしている様子をみることができます(片山 八幡神社の「鯰抑え」は固定されています)。
祭の由来は五穀豊穣や災害避けですが、このからくり人形の老人が押さえるのは天災です。
つまり暴れ狂う鯰は天災を表しています(綾野の地域は「地震がない地域」と伝わります。
片山 八幡神社の祭は雨乞いが由来です)。
西日本の各地域に様々な影響を与えていた「瓢鮎図」は、やがて、より民衆的な大津絵に受け継がれました。
大津絵は、17世紀初期に琵琶湖南西岸にある滋賀県大津で描き売られていた戯画ですが、
元々は庶民の生活の中に水難の防止の護符の位置づけにありました。
そのいくつかの画題のなかに「猿が瓢箪で鯰を押さえる」図柄が含まれています。
このように、瓢箪と鯰の関係を追っていくと、地震との関わりはないのかと思われるかもしれません。
実は「瓢鮎図」の影響は、鯰絵にも色濃く反映されているのです。
後編に続きます。
今回は、一つの地域に伝わる二つの鯰伝承についてのお話です。
和歌山県の丹生川丹生神社には、かつて皮膚病が治癒したお礼に
鯰絵馬が奉納されていました(2年前にご紹介させていただきま
したがその続編になります)
丹生神社の最寄駅は、JR和歌山線橋本駅から南海高野線に乗り
換えた先の高野下駅になり、神社はさらに東へ車でおよそ30分
進んだ山麓に鎮座しています。
一方で、丹生神社のそばを流れる丹生川には別の伝承があります。
「丹生川の中流には白い鯰が栖んでゐて鍋墨を渡すと其體
の汚れるのを嫌い雨を降らせて綺麗に洗い落す(「民間伝
承」1939年)。」
この鍋墨を渡すとはなんのことかといいますと、これは、雨乞い
にみられる儀礼なんですね。先行研究によると
雨乞い儀礼には、200ほどの種類があるとされています。例えば、
水場を掻き回したり、汚いものをワザと投げ込んだりと、水神の
池や淵に牛馬の首や心臓、頭蓋骨など不浄のものを投げ込む、あ
るいは汚物を洗う、聖地(水源である池など) 寺の釣り鐘を滝壷
へ投げ込むといったものです。
鍋墨を渡すという行為は、その代表的な雨乞い儀礼にある「水神
を怒らせる」という項目に当てはまります(雨乞い儀礼の分類に
ついては研究者により異なります)。
この鯰にまつわる雨乞い伝承は、高野下駅の隣駅、九度山町駅か
ら南に車でおよそ5分の国道沿いに祀られている善女龍王の祠
にも継承されています。
「江戸時代、人々は赤瀬橋を渡り高野山へお参りをしていた
が、雨ふりの日に通ると、きまって足をすべらせて深淵へ
落ちてしまうという不幸が続いた。ある男が短刀をもち淵
の底に飛び込み、命と引き換えに約二mの大ナマズと射止
めた。これを機に祠をつくり白ナマズの魂を祀るとたたり
が消えた(「雨の森の白ナマズ」1981年)。」
この物語に登場する赤瀬橋は、善女龍王の祠と高野下駅
の間に位置し、深淵は丹生川を指しています。龍王渓は、善女龍王
と赤瀬橋の間に位置し、丹生神社や善女龍王のそばには丹生川が流
れているのですが『九度山町史』には、江戸期に書かれた日次記にも
雨乞いについて綴られているくらいなので、この地域ではかなり
昔から雨乞い儀礼が行われていたことが読み取れます。
このように、九度山町の地域には皮膚病祈願による鯰絵馬信仰と
雨乞い祈願と、2つの鯰伝承があるということになるのですが
この善女龍王の祠については詳細を知る人がほとんどいません。
地元の方のお話によると、善女龍王は高野山への道しるべとして
祀られたとも、金剛峯寺の善女龍王とは直接関係がないと
も内容が様々でした。雨引山には、岩蓋をとると龍が昇るほど雨が降ると
いう独自の伝承もあるので、地域の中で存在した2つの口碑が伝わ
っているのかもしれません。
京都神泉苑と金剛峯寺と九度山町、この3つの善女龍王は、それぞ
れに独立した雨乞い伝承が伝えられています。そして鯰にまつわる
雨乞い伝承は九度山町のみに継承されています。
ただ言えることは、一つの地域に二つの鯰伝承と言っても、
鯰絵馬と雨乞いは根底では繋がっているのではないかということです。
自然災害と鯰伝承の関係をつきつめていくと、現代に役立てられる
慣習や情報を見いだすことができると思います。
JR二条駅より徒歩10分ほどの場所に位置する京都府・
神泉苑には、善女龍王社のほとりに弁天堂(増運弁財天)
が祀られています。
都名所図会(安永9年)によると、かつて弁天堂は神泉苑境内
の東南に位置していたのですが、天明の大火(1788年)で堂舎が
焼失したため、現在の場所に再建されました。
また、弁天堂の拝殿屋根瓦には「なまず」が彫られていますが
(鯰が施された年代は不詳とされています)おそらくは近代以
降のものと思われます。
ここまでは、以前ご紹介しましたが、今回は、
神泉苑の弁財天と竹生島の弁才天についてのお話です。
神泉苑の弁財天は、人々に財宝を授ける神として祀られて
います。竹生島の弁才天のように同じ二臂の座像ですが、手
には琵琶ではなく、宝剣と宝珠をもっており、
神泉苑の弁財天とは直接的な関係はないといいます。
(竹生島の弁才天は、琵琶を弾く衣を纏った二臂弁才天
(都久夫須麻神社蔵)と八臂弁才天像(宝厳寺)が(複数)
あります)。
弘法大師空海が北インドから勧請された善女龍王は、淳和天
皇の天長元年(824)の大旱魃時に、弘法大師空海が北インド
から勧請した海乞いの神様(龍神)です(諸説あります)。
鯰は雨乞いの神としても扱われている地域があるのですが、
神泉苑の善女龍王と鯰が直接的に結びついてはいないようです。
神泉苑で販売されている絵馬には、鯰に乗った弁財天が描か
れています。弁才天いわゆる市杵嶋姫命の眷属として鯰が描
かれているのであれば、竹生島でいう鯰の位置付けとして同
じではあるのですが、御朱印帳の表紙には神泉苑に渡御され
る龍神と、付き従う「水の生き物」たちのなかに「鯰」が描
かれているのですが(竹内栖鳳「龍神渡御の図」(明治20年))
これは、眷属としての鯰ではなく「水の生き物」のうちの鯰
です。つまり、竹生島では、龍・蛇・鯰が同じ水神として扱
われていますが、神泉苑では、雨乞いの神である善女龍王は
龍神であり、海上の神である市杵嶋姫命の眷属は鯰、として
扱われていると考えられます。
次回は、他県における善女龍王と鯰の関連についてふれたい
と思います
和歌山県には、複数の寺社にナマズ絵馬があり、その信仰が伝承されていました。たとえば、中辺路町温川の「大氏神社」の地域では、古来より皮膚病に罹った人は、七種類の煎った穀物を供え願をかけるとご利益があり、全快の際は、御礼参りにナマズ絵馬を供える習わしがあります。田辺市「闘鶏神社」境内の薬師堂にも、かつてナマズ絵馬がありました。日高郡みなべ町の「奥谷薬師堂」にも絵馬が保管されています。上秋津の「龍神宮」の地域では、明治初年時代、皮膚病を患った人は桟俵をかぶってお詣りし、なまずの額を供えることがあったことが伝わります。
ですが、前回までにご紹介した「西牟婁郡の絵馬」のように、行方がすでに消滅した事例もあります。今回、記録をたよりに薬師堂3箇所を訪れてみましたが、それらの地域には、すでに風習も残っていないため、あくまで推測になりますが、当時のナマズ絵馬信仰の背景を考えてみました。
たとえば、全体の所在地を地図に書き起こしてみると、これまで私が訪れたナマズ絵馬伝承の残る場所は、田辺から東に分岐する「中辺路」のルートに集中していました。そこで思いついたことは、熊野詣時に行けない人たちが、薬師堂に立ち寄って奉納した場合があったという可能性です。
熊野の神はもともと“大自然”そのものだと言われています。古代人が大自然に抱いた素樸な畏怖心から発している熊野三山の信仰だからこそ、身分や男女の別を問わず、あらゆる人々が熊野を目指したのだとも伝えられています。熊野詣は、和歌山県田辺市の熊野本宮、新宮市の熊野速玉大社、那智勝浦町の熊野那智大社の熊野三山に参詣することを示し、その熊野三山への参詣には、中辺路、大辺路、小辺路、伊勢路の道があります(写真①②③)。
一方、ナマズ絵馬は、主に皮膚病を祈願するという個人的な願いを表現しているため、匿名性をもっています。たとえば、熊野詣参道入口付近には、「龍神宮」への入口がありますが、桟俵をかぶってお詣りするということから、人知れず行われていた風習であることがわかります。なかでも中辺路ルートは、多くの参詣者が列をなして歩んだと言われていますから、果たして、ナマズ絵馬の奉納やお礼参りのために、熊野詣を行った人がいたのかどうかは疑問です。ですが、説経『小栗判官』を題材に、不治の病からの再生を説いた「つぼ湯」は、皮膚を病む人が湯治を行なっていたことが知られています。周辺地域には本宮があり、さらに東へ行けば、平安時代に薬師時如来を祀っていた新宮があることから、もう少し東へ向かおうとした人もいたかもしれません。中辺路ルートは決して楽な道のりではないように思います。体調などの事情で、本宮や新宮までたどり着けない人もいたかもしれません。
少なくとも、(かつてあった可能性のある)東光寺の薬師堂であれば、熊野詣での途中にナマズ絵馬を奉納する可能性があったのではないかと考えられます。
参考書籍
ふるさと上秋津編集委員会編『ふるさと上秋津』上秋津小学校育友会1984年
細田博子『鯰考現学』里文出版2018年
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