鯰の民俗事典

お問合わせ

鯰絵

<民俗 folklore>

鯰絵は、「地底に住む大鯰が地震を起こす」という民間信仰に基づいて作成されています。
なぜ、地底に住む生物が“ナマズ”なのでしょうか。
“地下にいるのは龍”との関わりはあるのでしょうか。
鯰絵のなかにしかみられない“ナマズ”の秘密を、民俗学の視点から解明します。

記事一覧

【雷とナマズのイメージ】

 今回は、安政2年の江戸大地震時に流行した鯰絵にみられる“雷”のイメージが、現代に至るまでどのように変容してきたのかを、 考えてみたいと思います。
 まず、鯰絵のなかで擬人化された雷やナマズたちは、火事と相撲をとったり、拳遊びをしたりと、ユニークな場面で描かれています。 雷はつねに脇役で登場していますが、なかには、人間のように仁王立ちをした勇ましい姿もあります。 たとえば「地震院火事落涙山非常明王開扉木礼」(図①)。この図は不動明王の開帳を風刺して作られており、 浅草寺の相輪が曲がった五重塔や、脇待、本尊の不動明王などが描かれています。口上には、地震後に火災が発生したこと、 主が避難中で空き家となった家が盗難にあったことのほかに、耳を塞ぎたくなるような雷鳴が響いたことが語られています。 もう一つ、雷がコミカルに描かれているのが「どらが如来世直しちょぼくれ」です(図②)。 この図は、江戸時代後期に流行した門付芸のちょぼくれをかりて作成されています。 願人坊主姿のナマズが四つ竹を伴奏に歌い、雷が木魚を鳴らす様子が描かれていますが、意外にも、 雷が主人公のナマズと同じ大きさで表現されています。 鯰絵のなかで雷は、鹿島神宮の要石よりも登場回数が多いことをみても、当時は印象が非常に強かったと考えられます。

 一方で、現代ではどのように表現されているかといえば、地震は親しみやすいナマズ、雷は角のある鬼が太鼓を担いだ可愛らしい 姿がよく見られます。 たとえば、火雷大神・大雷大神・別雷大神が御祭神の雷電神社(群馬県邑楽郡板倉町)の境内には、なでると地震を避け、 自信が湧くと言われる「なまずさん」があります。この「なまずさん」も丸みを帯びて優しい印象です。大きな座布団の上に横たわり、 かわいらしい雷たちに取り囲まれて、地域の人びとに親しまれています(写真①)(写真②)(写真③)。か つてこの地域は水郷で、沼の中の小島で、米は3年に1度しか収穫できず、川魚は神の恵みとされていました。 川魚は大切な食資源。神様からの賜り物として大切にされてきたのです。 また、雷電神社には昔から多くの参拝者が訪れ、参道脇に軒を並べた川魚料理屋では「参拝した帰りにナマズを食べると縁起が良い」と ナマズの天ぷらが親しまれています(写真④)。

 そもそも、地震と雷の発生のメカニズムが解明されていない時代において、雷と地震は常に関連付けられていました。 それは、雷の威力が聴覚や視覚、振動を通じ、大地を揺るがすほどの強大な威力を発揮するイメージを与えていたため、 地震に匹敵すると人びとは認知していたわけですね。鯰絵における詞書きにも「太鼓の音」や「光」など、 音や視覚的な表現が多く見受けられます。 ですが、恐ろしいと感じているにも関わらず、“雷とナマズを怖がる人びと”が描かれていないのはなぜでしょう。 おそらくは被災者の気持ちを和らげる癒しの効果を意図して作成したためと考えられます。 現代にみる雷とナマズのイメージの共通項は、親しみやすさ。 そして、恐怖感をもたらす存在から、キャラクター化され人々に寄り添う存在に変容しました。 鯰絵の流行がきっかけとなったといえるのかもしれません。

ーーーー
参考資料
・板倉町HP・コルネリウス・アウエハント『鯰絵-民俗的想像力の世界-』せりか書房1979年
・宮田登ほか『鯰絵—震災と日本文化』里文出版1995年
・細田博子『鯰考現学』里文出版2018年

【地震一口はなし】

今回は、鯰絵「地震一口はなし」をご紹介します。
といっても、”鯰絵”というにはあまりにも、制作した時期に疑問を抱く浮世絵でもあります。 鯰絵が流行したのは、安政2年10月2日から、およそ2ヶ月間の間です。

「地震一口はなし」に登場するのは、地震の見回りをしている鹿島大明神と、怪しい“ぬらくら者” です。 “ぬらくら者”は、地震を起こそうと神無し月に江戸を訪れます。 ところが鹿島大明神にみつかり悔しがる、そんな場面が描かれています。
そもそもこの “ぬらくら者”は何を指しているのでしょう。 “ひげ”のついたマスクを被った男性のようにも見えますし、詞書にも鯰とは記されていません。
“ぬらくら者”を辞書で引くと、なまけもの、と出てきますが、ぬるぬるとすべるという意味もありました。 もしかしたら制作者は、瓢箪鯰にかけて“ぬらくら者”を、“得体の知れないもの”として、捉えていたのかもしれません。 鹿島大明神は、“ぬらくら者”に対して「江戸はもちろん諸国にいたるまで監視する」 と言い放っていますが、安政江戸地震時に言う台詞ではないような気がします。 それに、下記の詞書にある “神無し月”が、いつのことを指しているのか気になりました。

 かミなしつきをさいわいにいちばんおおあてにあてよふとおもつたに、
 おやふんにミつかつてハもうかなわぬ(※1)

  たとえば、”鯰絵の流行したおよそ2ヶ月間”のうちの初期の頃でしょうか。
実際に、私の調査した国内24機関のうち「地震一口はなし」は、5枚を確認していますが、 そのなかには詞書きの位置に差異のある刷りのものがあります。 版木の存在を確認できないので、文字を後に削ったものか、嵌め木の技術をつかって後に文字を加えたものかは不明ですが、 鯰絵には、売り上げに応じて、もともと制作されていた版木に、別の版木で詞書の部分を足して制作した例があるので、 その可能性はあるかもしれません。 ですが、その場合、鯰を“ぬらくら者”と呼ぶでしょうか…そもそも、この時点では、まだ何も“起こしていない”のですよね。
また、描画の様式はどうでしょうか。歌舞伎の場面を彷彿とさせるその姿容や鹿島大明神の威厳さは、 たとえば、弘化4年(1847)長野県善光寺の地震後に話題になった、 善光寺地震を扱った初代歌川国輝の作品「かわりけん」や「さてハしんしうぜん光寺」に重なります。 この錦絵には、善光寺の阿弥陀如来が鯰の髭をつかむ場面が描かれ、鯰絵の先駆的な災害瓦版となりました。 歌川派の絵師を思わせる完成度の高さからみても「地震一口はなし」の制作者は、この災害瓦版や情報を元に、 “未曾有の災害”防止のために、江戸中の見回りをしていた鹿島大明神を描いたのではないでしょうか。 だからこそ詞書きには、鯰を “怪しいぬらくら者”として描いたとすれば辻褄が合います。

つまり、「地震一口はなし」の完成時期は、弘化4年善光寺地震後“以降”であり、 少なくとも鯰絵が流行した“江戸地震時”では“ない”と考えられるように思います。

(※1)宮田登ほか『鯰絵― 震災と日本文化』里文出版1995年
 図版:国立国会図書館蔵

【弁才天と鯰】

今回は弁才天と鯰の関係についてお話します。

まず、弁才天像といえば、どのような形体が頭に思い浮かぶでしょうか。 琵琶を弾く裸形坐像か、もしくは、琵琶を抱える天女の姿をイメージするかもしれません。 日本三大弁天の弁財天像では、 竹生島の琵琶を弾く衣を纏ったニ臂弁才天像(都久夫須麻神社)と八臂弁才天像(宝厳寺)、 江島神社の琵琶を引く二臂の裸形坐像(奉安殿・弁天堂)と八臂の宇賀弁財天像、厳島神社の八臂弁財天像(大願寺)が祀られています。

「弁才天信仰には、江の島や竹生島、厳島や松島では、蛇や龍とならんで鯰が神池の主とされる」という説もありますが、 鯰はこれら全ての弁才天像に直接的に関係しているのではなく、実は竹生島だけが”弁才天信仰”に深い関係があるのです。
「江の島や厳島の弁才天は、竹生島の影響をうけて勧請されたもので、 日本で最初に弁財天信仰が根付いた島」という説があるように、竹生島は古来から弁才天信仰と鯰について深く関わっています。

ちなみに、江戸で流通した浮世絵にも、弁才天は登場しています。「隅田川七福神の内」(一勇斎国芳画(1852年))右上の コマ絵には、琵琶を抱えた天女のような弁才天が描かれています。 この 弁才天は、竹生島に祀られる弁才天の分身であると伝わります。 ですが、弁才天の表記が、室町時代から用いられている「財」の字が描かれていますよね。 この場合は、七福神の弁財天を表した錦絵シリーズでもあるので、福徳・音楽の利益によって福徳利財に繋がることを 強調した弁財天を指しているのでしょう。 竹生島弁才天の場合は、平安時代前期以降に広まった弁才天信仰による弁才天を示しているので、 表記は才を用いるのが適切です。 ほかにも、鯰絵(1855年)にも弁才天が登場しています。「繁昌たから船」では、 遊女を弁財天に見立てています。 仮宅(災害時に設けられた仮の遊郭)営業を強いられた遊女を表しているので、 非常に風刺を効かせた画となっていますよね。つまり、浮世絵に描かれた弁財天は、竹生島の弁才天信仰による弁才天とは、 直接的な関係はなく描かれているようです。 そして、江戸時代後期の江戸においては、竹生島の弁才天信仰と鯰の関係は、浸透していなかったとも読みとれるのです。

荒俣宏『世界大博物図鑑』第2巻[魚類] 平凡社 1989 年
大島建彦「弁天信仰と民俗」『日本の美術317号 吉祥・弁才天像』 至文堂1992 年
(のちに「竹生島における鯰の表象と弁才天」『ビオストーリー』36生き物文化誌学会2021年に掲載しました)

【地震けん】

鯰絵「地震けん」には、鯰、雷、火事、親父が拳遊びをしている様子と詞書きには拳を打つ時の 動作に合わせて自然災害を嘆く拳唄が描かれています。
男性(親父)は酒を飲みながら見物していますしなにやら鯰の所作も楽しげですね。

この拳遊びは、拳を握って前に出す、膝に両手を置く、両拳を肩の高さほどに上げ競い合う遊戯です。 当時お座敷でだけでなく庶民の遊びとして人気があったので鯰絵によく扱われている題目でもあります。

その人気ぶりは、異版が3種類あることでも明らかで、現在鯰絵国内所蔵14機関のうち16枚の確認をしているのですが、 詞書きの書体、色の差異などが違います。
微妙な違いなので、同じ絵師が別の版木を使ったのか、摩耗したものなのか、 版木を目視できないため、推測することしかできません。 ですが、少なくとも「地震けん」については、地震発生後人びとの気持ちに、 少し余裕が生まれた時期に売り出されたものであること、そしてこの鯰絵から”癒しや笑い”を与えられたことがみてとれます。

ちなみに「鯰、雷、火事、親父」は、世間でたいへん恐ろしいとされているものをその順に並べていう言葉として使われてきました。 当時「雷」は「地震にかなわないものと噂された」と伝わります。 当時の人々にとっては、地震と同じように雷の発生するメカニズムは分かっていないことから、 特別な存在だったことは明らかです。 ですが、鯰絵には雷も多く登場するので、実際に江戸ではどのくらいの雷があったのか、 その被害はどれほどのものだったのか、深堀する必要がありそうです。

「地震けん」国立国会図書館蔵

【見立大地震角力取りの図】

鯰絵「見立大地震角力取りの図」は、四股名「地震の大出火」の大火事の力士と 「鹿島山要石」の地震鯰の力士が相撲をとっています。
行司は鹿島大明神、審判の年寄りには金持ちの男性が配され、詞書きには職人は地震 鯰や火事を応援し、金持ちの親父は「引き分けにしないと困る」などとそれぞれの思 惑が書かれています。

鯰絵はユーモアな鯰のイメージを与えることで周章狼狽する被災者の心に安堵感を与 える役割を果たしていました。「見立大地震角力取りの図」は異版もなく国内では4枚の所蔵しか確認していませんが、 当時人気力士の錦絵は飛ぶように売れていたので、 鯰絵には相撲をテーマにした図版が何種類も取り入れられていると考えられます。

「見立大地震角力取りの図」国会図書館

【安政二年十月二日夜大地震鯰問答】

鯰絵「安政二年十月二日夜大地震鯰問答」には、かつて遊郭のお座敷遊びであった首引きが描かれています。 よくみると、地震鯰とアメリカ海軍の将官ペリーが、首引きで力競べをしていますね。

首引きは、輪にしたひもを向き合って座った二人の首に掛け、互いに後ろに反り返り、倒れた者を負けとする遊びです。 二者の力関係を示す意味で、鯰絵以外でも諷刺要素の強い浮世絵やかわら版によく使われています。

この時代、天保の改革では風紀を乱す出版物の発行を禁じた法令があり、錦絵の出版や作画に厳しい制約がありました。 版元名、画工名を載せてはいませんが、黒船やペリーの似顔絵などをテーマに、多色摺りでよく 販売したものだなあと感心してしまいます。

詞書きをみると、”異国船の来航による不安よりも地震による被害のほうが気が楽である”とあります。 ですが「地震被害でそれどころじゃない」というナマズに行司の軍配があがっています。

「安政二年十月二日夜大地震鯰問答」は、国内に2枚の確認をしました。異版はありません。 読み物としても人びとの気持ちがよく理解できる特徴があるので、馴染み深い鯰絵だったように感じられます。

宮田登・高田衛監修『鯰絵 震災と日本文化』里文出版1995年
「安政二年十月二日夜大地震鯰問答」国立国会図書館蔵

【打身骨抜即席御りやう治】

鯰絵「打身骨抜即席御りやう治」には、鯰が登場しておらず、震災の状況を語る構図で描かれています。 その一方では「うなんきめし(鰻飯)」や「どうせう汁(鰌汁)」になぞりながら料理屋の案内をする役割を果たしています。
東日本の地震鯰を”要石で抑える”代わりに西日本の”瓢箪で抑える”西日本の流れも汲みつつ、 引礼(江戸時代の広告ちらし)をもとに作られており、とてもよく考えられています。

「打身骨抜即席御りやう治」には異版が多くみられます。 調査では、この鯰絵は彩色刷りですが、ほかにも墨一色のものが2種類ありました。 また、墨一色のものには、「瓢箪亭」の書体や波模様のないものや詞書きの書体や瓢箪の色が反転しているなど、 微妙に違いがあるものも散見されます。
紙質についても薄いものや大きさも一回り小さいサイズのものもあることから、かなり人気のあったように思います。 おそらくは摺りが間に合わず、器用な絵師見習いなどが、別の版木で真似てつくったものもあるかもしれません。

「打身骨抜即席御りやう治」東京大学総合図書館・石本コレクション蔵
宮田登・高田衛監修『鯰絵 震災と日本文化』里文出版1995年

【振り出し鯰薬】

鯰絵「振り出し鯰薬」には、右手には上方に復興景気で儲けた職人たちと、下方には芸人や花魁など、 被害を被った人たちの人形を対局させて差した藁づとを持つ、薬売りに見立てられたナマズが描かれています。

ナマズと薬、というとあまり馴染みがないかもしれませんが、ナマズの薬効については、 古くは『本草網目』(1603年)に薬効としてあげられている箇所もみられます。 はしかや麻疹が流行った頃見立て番付には、発病中に「なまずは食してよい食物」と「なまずは食してはいけない食物」 など効能と毒性の2面性を持ち合わせていることも示されています(1862年)。

現代でも、日本と比べ約2倍の開きがありますが、西日本には「薬用」としての鯰の伝承が残る地域が存在します。 たとえば、鯰の効能と毒性の言い伝えについても瘤、疥、利尿、神経痛、リュウマチ、咳止め、産後、おこり 瘧、歯痛などに効能がある一方で、 中毒や死に至るまでの毒性を持った生物として扱われているなど地域によって違いがあります。

この「振り出し鯰薬」に書かれている詞書には、薬売りの口上を借りて効能が謳われています。 ということは、当時江戸では効能のある鯰として認知されていたことがうかがえるのです。
地震を世間の金の巡りを良くする薬にたとえ世直し要素の強い鯰絵です。 護符としても、多くの人たちが買い求めたのではないでしょうか。

「振り出し鯰薬」東京大学総合図書館・石本コレクション蔵
細田博子『鯰絵で民俗学』里文出版2016年

Copyright (C) 鯰の民俗文化会. All Rights Reserved.

本HPで掲載している画像や文章等につきまして、著作権法に基づき、無断使用、転載、改変使用を禁止致します。