今回は、鯰絵「地震一口はなし」をご紹介します。
といっても、”鯰絵”というにはあまりにも、制作した時期に疑問を抱く浮世絵でもあります。
鯰絵が流行したのは、安政2年10月2日から、およそ2ヶ月間の間です。
「地震一口はなし」に登場するのは、地震の見回りをしている鹿島大明神と、怪しい“ぬらくら者” です。
“ぬらくら者”は、地震を起こそうと神無し月に江戸を訪れます。
ところが鹿島大明神にみつかり悔しがる、そんな場面が描かれています。
そもそもこの “ぬらくら者”は何を指しているのでしょう。
“ひげ”のついたマスクを被った男性のようにも見えますし、詞書にも鯰とは記されていません。
“ぬらくら者”を辞書で引くと、なまけもの、と出てきますが、ぬるぬるとすべるという意味もありました。
もしかしたら制作者は、瓢箪鯰にかけて“ぬらくら者”を、“得体の知れないもの”として、捉えていたのかもしれません。
鹿島大明神は、“ぬらくら者”に対して「江戸はもちろん諸国にいたるまで監視する」
と言い放っていますが、安政江戸地震時に言う台詞ではないような気がします。
それに、下記の詞書にある “神無し月”が、いつのことを指しているのか気になりました。
かミなしつきをさいわいにいちばんおおあてにあてよふとおもつたに、
おやふんにミつかつてハもうかなわぬ(※1)
たとえば、”鯰絵の流行したおよそ2ヶ月間”のうちの初期の頃でしょうか。
実際に、私の調査した国内24機関のうち「地震一口はなし」は、5枚を確認していますが、
そのなかには詞書きの位置に差異のある刷りのものがあります。
版木の存在を確認できないので、文字を後に削ったものか、嵌め木の技術をつかって後に文字を加えたものかは不明ですが、
鯰絵には、売り上げに応じて、もともと制作されていた版木に、別の版木で詞書の部分を足して制作した例があるので、
その可能性はあるかもしれません。
ですが、その場合、鯰を“ぬらくら者”と呼ぶでしょうか…そもそも、この時点では、まだ何も“起こしていない”のですよね。
また、描画の様式はどうでしょうか。歌舞伎の場面を彷彿とさせるその姿容や鹿島大明神の威厳さは、
たとえば、弘化4年(1847)長野県善光寺の地震後に話題になった、
善光寺地震を扱った初代歌川国輝の作品「かわりけん」や「さてハしんしうぜん光寺」に重なります。
この錦絵には、善光寺の阿弥陀如来が鯰の髭をつかむ場面が描かれ、鯰絵の先駆的な災害瓦版となりました。
歌川派の絵師を思わせる完成度の高さからみても「地震一口はなし」の制作者は、この災害瓦版や情報を元に、
“未曾有の災害”防止のために、江戸中の見回りをしていた鹿島大明神を描いたのではないでしょうか。
だからこそ詞書きには、鯰を “怪しいぬらくら者”として描いたとすれば辻褄が合います。
つまり、「地震一口はなし」の完成時期は、弘化4年善光寺地震後“以降”であり、
少なくとも鯰絵が流行した“江戸地震時”では“ない”と考えられるように思います。
(※1)宮田登ほか『鯰絵― 震災と日本文化』里文出版1995年
図版:国立国会図書館蔵
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