鯰の民俗事典

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【オーストラリア アボリジニの岩壁画】

以前縁あって訪れたのは、パースからおよそ340Km離れた「マルカの洞窟」でした(写真①)。 かばのあくびとも呼ばれるマルカの洞窟の地域には、かつてアボリジ二の人々が住んでいたそうです。
 オーストラリアの先住民を示すアボリジニ。 彼らの日常は、岩壁画や木皮画など絵を描くことで信仰や考えを表し発展してきました。 アボリジニの芸術活動は現代も高く評価されています。 アボリジニの絵画は、主に動物や植物などの精霊を洞穴や崖や岩などに描くのですが、 そのなかにはナマズも登場しています。
たとえば、オーストラリア北部のアーネムランド。カカドゥ国立公園にあるウビル洞窟には岩絵がみられるとのこと。 まだ実際に行ったことがありませんが、図版をみると、縦に長く伸びたナマズの胴体が5、6匹、同じ向きを向いて並んでいる 幾何学的デザイン調の洒落た画です(『ナマズの博覧誌』)。注記には「聖なる水場にあるナマズが描かれている」とありました。 加えて“ナマズの骨は死者の肉体と魂を表すもの”とのこと。 そもそも紀元前4000〜2000年頃、ナマズは死の観念と結びつくものとされていたようで、東アーネムランドの葬送儀礼のなかには、 魂に結びつけられたナマズが棺に描かれているといいますから、ナマズはアボリジニの人びとにとり、特別な存在であると感じられます。

  さて、マルカの洞窟のなかには、ナマズや図版などでみかける動植物はみつけられませんでした。 確認できたのは、手形や「魚のような形」をした岩壁画です(写真②)(写真③)。幾何学的な模様もありません。 ただ、これが何の魚なのか気になります。とても大雑把な画でナマズのヒゲも描かれていません。 よくみると、線はありますが1本なのでナマズとは違うのでしょうか。 とりあえず、この魚がなんの種類か(いちおナマズかどうかも含めて)関係者にたずねたところ、 ユーモアたっぷりに「ナマズかもね!」と言われました。 ネット情報ですが「マルカス・ケーブ」(魚と月)とありましたが、今のところ魚との関係性は不明です。
動物を大切にしているアボリジニの人々は、作品によく動物を登場させています。 そのなかでもトーテムとして「魚」の画は特別だったのかもしれません。 今後も「マルカス・ケーブ」やナマズの岩壁画などの情報があれば、追記したいと思います。

参考文献
ダイアナ・マルシェル『写真で知る世界の少数民族・先住民族 アボリジニ』汐文社2008年
ハワード・モーフィ『岩波 世界の美術 アボリジニ美術』岩波書店2003年
神戸市立博物館編『狩人の夢 オーストラリア・アボリジニの世界——』神戸市スポーツ教育公社1986年
秋道智彌「オセアニアにおけるナマズの民俗と信仰」『ナマズの博覧誌』誠文堂新光社 2016年

【台湾 ナマズの薬膳スープ】

 台北市にある士林夜市は、グルメや雑貨や工芸品などを販売するお店が所狭しと立ち並び、日が沈む前の時間帯から多くの人々で賑わう夜市です。以前訪れたとき、すぐに向かった先は路地の一角にある薬膳スープの店「海友十全排骨」でした。店先には、豚、羊、鶏を煮込んだ鍋が複数並んでいるのですが、そのなかの一つに、ナマズの薬膳スープ「十全藥燉土虱」があります。ミシュランのビブグルマンに選ばれただけあり、店内は地元の人や観光客で満席状態。空席を待つ人たちが列になっていたため、テイクアウすることにしました。

「十全藥燉土虱」
薬膳スープというだけあり、黒い色のスープの中に、じっくり煮込んだナマズの切り身が浮かんでいます。 一口飲みましたが、薬草の独特な風味と味わいに苦手意識がわいてしまい飲み干すことができません。ですが夏バテ気味の同行者は「元気がみなぎるよう」と言い飲み続けています。

高タンパク質で栄養満点なナマズは、主に食用としてこれまでご紹介してきましたが、時代を遡れば、魚類の図譜『皇和魚譜』(江戸時代)には薬効が示されています。「小型のナマズを醤油で煮て食べると食あたりなど吐気が治る」というものです。著者の栗本丹州が自身で試してみたら、たしかに効きめがあったといいますから。

さらに日本各地に伝わる俗信にも、薬用として継承されています。たとえば、秋田県では、頭を黒焼きにして服用すると咳止めになる、岐阜県ではナマズの肉を食べると利尿に効果がある、愛知県ではナマズを食べると乳がよく出る、香川県では神マムシとナマズを蒸焼きにして食べると経痛•リュウマチに効くなど。
薬膳スープ「十全藥燉土虱」により、改めて薬用としてのナマズの効能を実感しました。
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荒俣宏『世界大博物図鑑』第2巻[魚類] 平凡社1989年
鈴木棠三『日本俗信辞典』 角川書店1982年

【和歌山県のナマズ絵馬】

 西日本地域に多く見られるナマズ絵馬。祈願内容は主に皮膚病(癜病)を表していますが、ほかにも「安産祈願」「子孫繁栄」「子育て」などの祈願時に奉納する事例があります。和歌山県の”行方が分からないナマズ絵馬”のなかで「有田郡金屋町・子育て地蔵」という記録を頼りに探してみました。今回はその報告です。

 市によると、同地域に該当する「子育て地蔵」は2件あると教えていただきました。まずは、1つめの西丹生図土性谷の「石ヶ谷子安地蔵」に行ってみることに。和歌山県有田郡有田川町を通る県道、吉備金屋線から細い道を歩き、入口が迷路のように入り組んだ道筋にあったので、途中、地元の方に聞きながら向かいました。

「石ヶ谷子安地蔵」は、高さ9m、幅5mあまりの岩に彫刻された地蔵で、子授け、安産祈願で知られています。拝観することが叶いませんでしたが、画像で確認すると、自然の岩に彫刻された仏像なのですね。
『吉備町誌』には、「平安の頃、比丘尼(びくに)田に住む荘官夫婦が住んでいた。 ある日難産に苦しむ婦人に、旅僧が読経し念じると、息をふき返し玉のような男の子を安産した。僧は旅発つ前に、 木造の地蔵を刻み、これを祭るよう告げた。」というお話が記載されていました(要約)。
市や地域の方からは、ナマズ絵馬については聞いたことがないとのこと。憶測ですが「安産祈願」や「子孫繁栄」を 祈念したかもしれないし、もしくは、子供の皮膚病平癒を祈念したナマズ絵馬が掛けられていたかもしれませんよね。

 地図をみてもわかるように、有田町には、周辺地域に関連づけられるナマズ伝承がなく、残念ながら、今も存在するもう1件の「子育て地蔵」が「住所非公開の地蔵」とのことから、比較検証することができません。今回はここまでの報告となりますが、「有田郡金屋町・子育て地蔵」については、今後、機会があれば追記したいと思います。

参考文献
野堀正雄『祈願にみる民間療法』近畿民俗学会 1980年
吉備町誌編纂委員会『吉備町誌』吉備町1980年

【霊水とナマズ】

“地震”をイメージするナマズ。歴史を遡れば、かつてナマズは“水害”や“雨乞い”のシンボルでした。 やがて、“世直し”や“皮膚病”のイメージも付加されるようになります。
鯰絵馬にみられる祈願内容には、主に皮膚病平癒(癜病(なまずびょう))が多く含まれます。 皮膚に表れる症状が、ナマズの腹に似た斑点があることが由来ですが、 訪れた先で、絵馬に描かれた内容をみていくと、地域によっては、広い範囲で皮膚に関わる症状が祈願されています。
江戸時代に江戸に流通した本草学や近代の資料をみると、癜病の様々な治療法がみられます。 なかには、患部につけると効能がある神水、いわゆる“霊験のある水”により治癒するという民間信仰もありました。
そこで今回は、霊水とナマズが関わる10の伝承を取り上げていきたいと思います。

まず、1福岡県・普光寺では、癜堂に祀られる“なまず佛”の足元に流れる霊水を、 祈念後に持ち帰るなどの慣習が現在も続いています(写真①)。 2広島県の勝福寺では、山麓の池から湧きでた白い水を患部につけ、 治癒後にはお礼に「ナマズ」の絵を観音堂に奉納したことが伝わります。 ここには享保時代の絵馬が掛けられています。 3大分県の大国玉神社では、手水鉢の御水で患部を洗えば快癒すると伝わります。 4鹿児島県の天之御中主神社では、皮膚病の治療を願う人の額や患部に、 神主が「妙見」と弁天の梵字「ソス」を手で書き、神の力を表わす九字を切り、 治癒後のお礼には脇田川(なまず川)にナマズを放ちます。 5福岡県の妙見神社では、境内のナマズ池の水底にある神水(大きな石の凹み部分)に 患部を付けると治癒すると伝えられています。 6福岡県の松尾神社では、境内の古井戸の霊水がナマズに効き目があるといいます。 7福岡県の武守権現神社には、大旱魃時においても絶えず清水湧き出ていたという「鯰池」 の写真が拝殿に掛けられています(写真②)。 8熊本県の大津山阿蘇神社。 ここでは皮膚病にかかれば、境内の池に鯰を放ち祈願します。 そして神職からいただいた御弊で患部を撫ぜると全快すると伝えられます。 9和歌山の龍神宮では、子供が頭に腫物や吹き出物が出来ると、 米俵のふたに使用した棧俵をかぶって登上し龍神宮に願をかけ、治癒後にはナマズを龍神宮の小池に放ち、 お礼参りをします(写真③)。 10鹿児島県の南方神社では、皮膚病の神様に願をかけ、 治癒後はお礼として「諏訪池」にナマズを放流するという慣習があります(写真④)。 このように、霊水とナマズの間には密接な関係があることがご理解いただけたと思います。(※1)
そもそも、なぜ「水」を皮膚病の患部に塗ることで効能がみられたのでしょうか。
古来、水は穢れを払い、病気を治癒するとして崇められてきました。 もちろん、ナマズは水神としての側面を持ちますから、 ナマズが関わる水(池、川含)が、霊水とされていたのは自然なことかもしれません。 ですが、それだけではないとも思いました。というのも、不思議なことに、 上記に挙げた霊水伝説事例には、大半が皮膚病治癒後の御礼にナマズ絵馬(半紙)を奉納しています。 これには、雨乞いが深く関わっているように思うのです。 雨乞いとは、降雨を願って行われる儀礼の総称であり、または、その呪術的な儀式のことをさしますが、 上記の事例で言えば、福岡県・武守権現神社には、 ナマズが登場する雨乞い譚が『宗像伝説風土記』に『福岡の民話』などにみられます。 さらに、熊本県・大津山阿蘇神社南関町地域では、 天保期に二晩三日の雨受御祈祷執行されています(『南関町史』)。 広島県・勝福寺絵馬堂においても昭和10年代の雨乞いをしていた形跡がみられます(『広島市の文化財』)。
つまり、雨乞いをするほど旱魃続きであるということは、作物が育たない状況にあったことを示しているわけです。 人体に必要な栄養が十分に行き届かない環境だったと推測できるのです。

次回は、ナマズ絵馬奉納を切り口に雨乞いと皮膚病の新たな関係性を見いだしていきたいと思います。

(※1)現代では、霊水箇所がほぼ封鎖されていますが、ナマズ絵馬については継承されています。

半田隆夫『神佛と鯰』私家版1999年
細田博子『鯰考現学』里文出版2018年

【ナマズと剣】

安政2年に発生した江戸大地震時に大流行した鯰絵は「地底に住む大鯰が地震を起こす」という民間信仰に基づいて作成されています。 そもそもなぜナマズが「地底にいる」と思われていたのかといえば、かつて大地の下は海になっていて、 その中を泳ぐ巨大な魚が、この大地を支えていると考えられていたからです。
“ナマズと地震”の着想は、この魚が体の位置を変えるたびに地震がおきるとされていた、つまり、元は水魚の視点から語られています。
たとえば、ベトナムのホイアン中央部に位置する来遠橋に伝わる伝説もその一例です(図版①)(図版②)。来 遠橋は、ベトナムの2万ドン紙幣の裏面にも描かれている名所で、別名、日本人橋と呼ばれているのですが、 由来は、大怪物ナマズが尾びれで暴れたために地震や洪水が起きたことを機に建てられたと伝えられます(図版③)。 ですが諸説あり、16世紀にこの地域に住んでいた日本人が橋を作ったとか、鹿島大明神の剣を模倣したとも言われています。
その来遠橋の上にナマズが祀られているというので訪れてみますと、 現在全体改修工事のため、詳細な確認はできませんでしたが「来遠橋」と描いた扁額が掲げられている祭壇はそのまま残されていました。 祀られている神様(鎮武北帝)の足元をみると、亀に片足を乗せ、手にした剣が海(波)を刺しています(図版④)。
一説には、“龍(地震)を剣で抑えた”とも言われているとありまように、 古来、人間の力が及ばない自然現象による脅威は、龍の仕業であると捉えられていたため、 “龍と剣”が、“ナマズと剣”に変容し現代に伝えられているのです。 ですが、16世紀、鹿島大明神の剣を模倣したということであれば、当時この地域に住んでいた人たちの間で、 “地震とナマズ”という概念が定着していたかどうかは疑問に思いました。

というのも、日本でいう龍から鯰への変容は17世紀前半で、 それは、江戸を中心に刊行された雑書類に添えられていた口絵「地底鯰之図」の名称のみが龍王から鯰に変えられ、 その後「大日本国地震之図」において、地震の表徴が「龍が鯰」へ変容したというのが通説です。 日本国をとりまく龍の頭と尻尾を刺した鹿島神宮の石剣は、その後要石として伝えられていくのですが、 江戸の民衆が、初めて鯰を目にしたのは、1722-23年頃であり、多くみられるようになったのが、1728年以降ですからね。 また、江戸時代を通して200回以上も上演された人気の演目「江戸歌舞伎「暫」のなかで、 鯰が地震との結付がわかる台詞を述べたのも宝暦三(1753)年の上演であることが指摘されていることを踏まえると、 少なくとも江戸で「地震を表象する鯰を要石が押さえるという観念」が民衆に根付いたのは、急速に認知されたのではなく、 1750年頃から、鯰絵の誕生する幕末期まで、およそ30年間の期間に徐々に広まったと考えられるのです。

そもそも鯰絵のなかでも「地底にいる鯰」を描いたものは「なまづ小話」一つの種類しかありません(図版⑤)。 前回お話しした、鯰絵「地震御守」には体が「龍」である鯰が描かれているように、 鯰絵のなかには、地底にいて災害を引き起こす生物には、ナマズと龍が混在しています。
このように、江戸においても「地震とナマズ」という概念が定着するには長い年月がかかっているわけですから、 たとえ西日本地域の人びとの関わりがあったとしても、秀吉に関わる人物であれば16世紀の口伝説も考えられるのですが、 鹿島大明神の剣を模倣しているのだとすれば17世紀説、洪水を起こしたのは龍ではなく鯰と伝えられていたのだとすれば、 18世紀説が妥当であるような気がします。 どちらにしろ、来遠橋の伝説のように「刀剣が鯰を抑える」という“防御”のイメージは共通のようです。

参考書籍
笹間良彦『龍—神秘と伝説の全容』刀剣春秋新聞社1975年
大林太良『神話の話』 講談社1979年
気谷誠『鯰絵新考』筑波書林1984年
『鯰—イメージとその素顔』八坂書房2008年

【日本のナマズ料理】

「全国にナマズ料理はどのくらいあるの?」と質問を受けることが時どきありました。 そのような場面では、いつも答えに時間がかかってしまいます。 というのも、日本の場合ナマズ料理には、“味わう料理”と“祭りの神饌”に分けられ、その印象に差異があるからです。 そこでここでは、私が調査をした少ない範囲ではありますが、日本のナマズ料理をまとめてみたいと思います。

いまからおよそ9年前のことですが、過去の書籍や文献からナマズを扱う料理店、 いわゆる“味わう料理”をほぼ抽出し再確認をしましたが、営業しているお店がかなり減少していました(※1)。
そのなかでも、実際にいただいたのは、埼玉県吉川にある料亭「糀家」の“なまず天ぷら御膳”(写真①)、 群馬県「小林屋」の“なまずの天ぷらとたたきあげ”(写真②)、岐阜県の「やまと」の“なまずランチ”(写真③)です。 いずれのお店も、臭みもなく美味しくいただくことができました。 ナマズは高たんぱく質で、白身なので、どのお店でも、名前を聞かなければナマズ料理とは気づかないほどでした(2016-2017年)。

また、訪れたものの”味わうことができなかった”お店は、2006年に閉店した京都府 十一岡村屋(写真④)、 2022、3年でナマズ料理のみが終了した岩手県「喜乃字」(写真⑤)です。 これらのお店は、惜しまれつつ閉店したという印象を受けました(※2)(2022-2023年)。

一方で、ナマズ料理を“祭りの神饌”で食している地域については、現代においても伝承されています。 これまで11件のナマズにまつわる祭を行う地域を訪れましたが、そのなかで“祭りの神饌”に該当するものは、 毎年5月に振舞われる、滋賀県三輪神社の“どじょうまつり”です。ここでは、神饌献供の鰌と鯰のナレ鮨をいただきました(写真⑥)。 ナレ鮨は、前年から用意したどじょうとなまずを使い、 ご飯、タデ、塩などを交互につけた樽を半年寝かして作られ東西の当番2組によって漬け込まれます。 そして行列を組み神社まで運ぶのですが、このナレ鮨をつくる過程において、もし当番の家に不幸があれば、 鮨に穢が移らないように忌みが開けるまで一次的に他所に預けられなくてはなりません。 それだけに厳重な清浄がこの鮨には要求され、“味わう料理”とでは、まさに味わい方が違います。 毎年、舞や御供奉納後、ナレ鮨の周りに地域の方々が集まり、“今年のナレ鮨”を味わいます。 私もそのとき初めていただきました。そのナレ鮨の味は独特の酸味があり歯ごたえがありました(2016年)。

祭のなかで、もう一つ熊本県井口八幡神社の“川なまず”という祭りがあります。 この祭の習わしでは、田んぼの水や川を止め、水を減らして溜めたなかで、ナマズを含む魚を取り、 それを持ち寄り料理して食べる、という伝承がありました。 ですが、訪問した年にはすでに行われておらず、”ナマズを食べる”ことができませんでした。 地域の方のお話によると、年々“ナマズを含む魚”が減少し、 海の魚を持ち寄るようにもした年もあったものの限界があり、祭はおよそ2、3年前から行われていないということでした(2016年)。

ちなみに、私が訪れた鯰伝承においては、実は、ナマズを“禁忌”として食さない地域の方が多いのです。
というのも、主に西日本では、 “ナマズを食する”、という行為は特別な意味を持つ地域が多いからです。 たとえば、熊本県阿蘇地域では、ナマズはトーテムの要素を多く含み、御供の位置付けにあります。 それ故に“鯰を食す” ことは禁忌とされています。私が訪れた阿蘇神話が語り継がれる阿蘇系の神社23社には、 ナマズには神性が与えられているため、現代においてもそれは守られています(※3)。

また、滋賀県竹生島及び周辺地域においても、ナマズは御供の要素を多く含んでいますが、“鯰を食す”ためには、 かつて鯰免状という許可証が必要とされていました。 先述の滋賀県三輪寺社における鯰鰌のように、両地域においては、“鯰を食す”という“特別な場面”が存在する事例ですね(※4)。

ほかにも、徳島県の鯰神社、福岡県の賀茂神社にも独自の鯰伝承があります。 それらの地域においても、ナマズには神性が与えられているため、食することはできません。

駆け足での説明になりましたが、日本の場合、ナマズ料理を“味わう料理”と“祭りの神饌”に分けられ、 その印象にも差異があるということをお伝えしました。今後も食する機会があれば追記したいと思います。

(※1)くわしくは、細田博子『鯰絵で民俗学』里文出版2016年にまとめています。pp144-147
(※2)この二件は、facebookページ 上でくわしく掲載しています。
(※3)くわしくは、細田博子『鯰考現学—その信仰と伝承を求めて』里文出版 2018年 にまとめていますが、 阿蘇神話(ナマズを食さない伝承)が継続している阿蘇神社については、一部訂正がありますので、以下記載します。
pp159-164 1.福岡県 地主神社・阿蘇神社、2.福岡県杷木阿蘇神社、3.福岡県 田主丸阿蘇神社、4.福岡県 中島弁財天社、 5.福岡県 海津阿蘇神社、6.熊本県 五郎丸神社、7.熊本県 乙姫神社、8.熊本県 大津山阿蘇神社、9.熊本県 太刀緒阿蘇神社、 10.熊本県 国造神社、11.熊本県 阿蘇神社、12.熊本県 年禰神社、13.熊本県 小島阿蘇神社、14.熊本県 鯰塚、 15.熊本県 三社宮鯰三神社、16.熊本県 六嘉神社、17.熊本県 上島四所神社、18.熊本県 遥拝神社、19.熊本県 平川阿蘇神社、 20.熊本県 上川阿蘇神社、21.熊本県 青井阿蘇神社、22.熊本県 遥拝阿蘇神社、23.長崎県 多良見阿蘇神社

(※4)細田博子「竹生島における鯰の表象と弁才天」『ビオストーリー』36生き物文化誌学会2021年

【ナマズ料理と信仰 後編】

北欧アイスランドの首都、レイキャビク。レストラン「グランドブラッスリー」は、レイキャビクの中心部に位置する グランドホテル内にあります。ここを訪れたのは偶然でしたが、ディナーメニューのなかにナマズ料理がありました。
「Grilled Atlantic Catfish-mandarin potatoes,cauliflower,chive sauce (アトランティック・キャットフィッシュのグリル-マンダリンポテト、カリフラワー、チャイブソース)」(写真⑦)
ナマズの生臭さを抑えるためか、ブルーチーズソースをふんだんに使った料理でした。定番メニューではないようですが、 ニオイがとにかく独特で、人によっては好みの分かれる風味かもしれません。
そもそも、北欧、シベリア、カナダなど寒帯地区とオーストラリア南部にナマズは生息していないといわれています。 なぜここにナマズ料理があるのかと不思議に思いました。ですが、魚類は全世界におよそ36,000種以上、日本列島やその近海には、 およそ4,700種類以上も分布しています。ナマズ目魚類だけでも世界に約2405種以上が確認されていますし、 日本にみるナマズの分布域(淡水域)と違い、世界では海域での漁獲量もあるわけですから、世界にみるナマズの種類は、 想像以上に多いということになります。「グランドブラッスリー」の“キャットフィッシュ”の種類までは分かりませんが、 レイキャネース半島付近でも“ナマズ”が釣れるようですから、 この町で“ナマズ”を使った料理をみかけても不思議ではないのかもしれません。
そうしてみると、この町のナマズには、“民俗や信仰があるのか”気になって仕方がありません。 ところが、深堀しなければと思っていた矢先のことでした。
2023年11月には、レイキャネス半島にある火山が噴火しました。 ニュースでは、レイキャビクから南西に約400km離れたグリンダビークに溶岩が流れ込み、 住宅火災が発生したと取り上げられていました。また、道路に亀裂が走り地面が陥没したため、 噴火のおそれが高まっているとして、南西部の町の住民4000人は事前に避難していると伝えていました。
その後が気にかかり、ネットで検索していると、レイキャビクには多くの火山が存在するため、 これを利用した地熱発電が行われているという記事が目につきます。 偶然にもその頃読んでいた『ブレイク』(真山仁著2023年)には、 大規模な地熱発電を行うレイキャビクを舞台とした物語が繰り広げられていました。 また驚いたことに文中には「北欧に伝わる神話と日本の神話を引き合いに出して」とあるではありませんか。 おそらく“北欧神話”というのは、噴火が神々の怒りであるとし、 北欧の過酷な自然環境から生き延びるために生まれた神話(神々の住む山々、黄泉の国や秘密の隠れ処に通じる橋のイメージを歓喜したもの)で、 “日本の神話”というのは、岩屋に隠れた天照大神が岩戸を開き、 再び太陽の明るさを取り戻したという「古事記」にみえる神話を指しているのでしょう。 この“北欧と日本の神話”は、“火山の噴火や地震の影響を受けた状態”が共通するということでよく引き合いに出されるようです。
噴火や地震のメカニズムが解明されていない時代ですから、 神々の怒りとして表現されることは自然なことです。 ですが、これらの神話には、ナマズとは直接結びついてはいません。 日本の場合、九州阿蘇地方に伝承される健磐龍命の開拓譚“阿蘇神話”には、“噴火”による被害に悩まされていた人たちの苦悩が描かれています。 阿蘇地方にみるナマズ食を禁じていることも、元来「阿蘇山の噴火」に影響したものです。 一般的に、北欧に伝わる神話と引き合いに出される”日本神話”ですが、あまり知られていない阿蘇神話もしっくりくるように思います。
さて、前回に続き「ナマズ料理と信仰」をテーマに考えました。年間平均気温が27°Cのベトナム南部のホーチミンとは真逆である、 年間平均気温は5℃の北欧アイスランド。他国では二つの国の比較のみですが、ナマズ料理に直接的な“信仰”はみられません(写真④)。 一方で、日本のナマズ食には信仰を背景にした食の制限がみられます(写真⑧)。 これは、日本は神話や信仰が現代まで脈々と受け継がれる国であることを示しているのです。
そこで次回ですが、リクエストがありまして、日本の【ナマズ料理 特別編】になります。

参考資料 ヴァルター・ハンゼン『アスガルドの秘密—北欧神話冒険紀行』東海大学出版会2004年
谷川健一『日本の神々』白水社1984年
真山仁『ブレイク』角川書店2023年
秋篠宮文仁・緒方 喜雄・森 誠一編『ナマズの博覧誌』誠文堂新光社 2016年

【ナマズ料理と信仰・前編】

先日放送されたNHK総合「ギョギョッとサカナ★スター」では、埼玉県にあるナマズ料理の店を紹介していました。 この放送回をみると、“ナマズは日常的に食べられる魚”のようにみえるのですが、 日本ではナマズに信仰が付随している地域では、日常的にナマズを食べることができません。
たとえば、九州地方の阿蘇ではナマズには神性が与えられているため禁忌食とされていますし、 近畿地方の滋賀にみる祭祀では、一年かけて作ったドジョウとナマズのナレ鮨が奉納されたのちに”食することが許可”されるケースもあります。
そもそも日本のナマズ料理は、時代や身分によっても料理法に差異がみられるという特徴があります。 ナマズの種類はナマズ目魚類だけでも世界におよそ2405種以上が確認されているという説もあるので、 その料理数となると無限にあるような気がしますよね。
たとえば、現在、和食を科学や歴史などの多角的な視点から紹介する「和食 日本の自然、人々の知恵」展が 国立科学博物館が開催されています。「魚介のコーナー」に展示されている多数の魚模型のなかには、“ナマズ”(ナマズ目ナマズ科))も含まれています(写真①②)。 会場内にある「織田信長の饗応膳コーナー」では、戦国時代に信長が徳川家康をもてなした本膳料理も再現され、 御膳には“鯉の汁”は並んでいますが、“鯰の汁”は見当たりません(写真③)。 これは当時の信長にとりナマズは“神の位置付け”となるため”日常的”に食べていたとは考え難いこともありますが、 そもそも当時はナマズ料理が珍しく貴重な位置付けだったといえるのです。
ですが中世期になると、ナマズは貴族の間で食されています。 『料理物語』(1643年)、『料理献立集』(1686年)、『当流節用料理大全』(1714年)、『新撰庖丁俤』(1803年)には、 かまぼことともに鯰の汁が記載されています。そして、江戸時代後期には、「石城日記」から下級武士の献立に“鯰煮”が並んでいます。 『守貞謾稿』には“鯰鍋”、「鯰絵」には蒲焼きが主流料理だったことがみてとれますから、 この頃にはナマズは一般食として食べられていたことがわかります。 つまり、日本のナマズ料理事情というのは、信仰により禁忌食とする地域があり、 身分や時代によってナマズの料理法が変化しています。
それでは、日本以外のナマズ料理と比較してみましょう。 養殖ナマズ生産量の高いベトナムでは、ナマズは日常的に食べられています。 たとえば、1871年から営むハノイ発祥のお店、ホーチミン市にあるナマズ料理店、Cha Ca La Vong(チャーカーラボン)では 「チャーカー」が食べられます。チャーカーは、高タンパクなナマズをネギや香草を油で炒める料理で、 栄養満点の人気食です(写真④⑤)。ですが、満員で賑わう店内壁には「日本では食材としてなじみのないライギョが、こ ちらでは高級魚に属する。ハノイには、このライギョを使った「チャーカー」という名物の鍋料理がある。」と 岐阜新聞の記事が額装されていました。掲載記事は2005年のものでしたがなぜかナマズについてはふれられていません。
“ライギョ”は、一見ナマズと同じ白身魚で形体もナマズに似ている細長い魚です。 図鑑などではナマズとは区別され分類されていますが、お店の方の説明では、 このチャーカーに使用している魚を「キャトルフィッシュ」といい、“ナマズの画像”を指差します。 ナマズ目ギギ科の一種の魚をライギョの料理として紹介するお店や書籍もあるようですが、 ベトナムでは、ナマズをなぜか“バサ”や“チャー”と呼んでいます。よくよく調べてみると 、2017年には、イオンがベトナム産の養殖ナマズ“パンガシウス”の蒲焼きを販売したという記事がニュースになっていました。 “パンガシウス”というのは、ナマズの一種です。つまり、ベトナムのナマズは、いろんな種類のナマズがあって呼び名も多数あるのです。 ややこしいのですが、これらは全て“ナマズ”なのです。それではなぜ「キャトルフィッシュ」と言わないのかといえば、 アメリカで養殖されているナマズとの軋轢が原因にあります。ベトナムで養殖されたナマズにはCatfishの呼称が使用できないという 法的規制が生じたということなのですね。 それでもベトナムでは長い時間をかけて“バサ”や“チャー”という名の“ベトナム産のナマズ”を定着させ、 美味しいナマズとしてその地位を獲得したのです。つまり、ナマズ料理店「Cha Ca La Vong」に あった記事が掲載された2005年の頃は、主に“ライギョ”を使用していたけれどベトナムの養殖ナマズの 生産量増加や様々な努力の末に“ナマズ”が主流の名物料理となったということかもしれません。
一方、ベトナムホーチミン市1区にある福海寺(写真⑥)。 ここはオバマ米大統領が参詣された寺院として知られていますが、境内池にはナマズが多数泳いでいます。 日本でみる形態とは違うように思いました。細長くヒゲが目立ち、とにかく大きい。白い鯰もあり威厳さえ感じられます。 お話によるとここではナマズは”神”として存在しているといいます。福海寺は子宝を授かりやすい後利益があるため、 多産型のナマズの特徴にかけているのかもしれません。 福海寺は中国寺院ですから、以前お伝えした“来遠橋のナマズ”や“日常食のナマズ”とも別の位置付けであると考えられます。

次にもう一つ、他国のナマズ料理をみてみましょう。
つづく
参考資料
秋篠宮文仁・緒方 喜雄・森 誠一編『ナマズの博覧誌』誠文堂新光社 2016年
川那部 浩哉・前畑 政善・宮本 真二編『鯰—イメージとその素顔』八坂書房2008年

【瓢箪と鯰 後編】

前編では、これまでにご紹介した「瓢箪と鯰」が登場する鯰伝承は、ほとんどが「瓢鮎図」を モチーフとされていたというお話をさせていただきました。
そもそも、鯰伝承は西日本地域に伝承されたものが多く、鯰は”地震”を示してはいません。 ですので、後編では「瓢鮎図」が、江戸で流行した「鯰絵」にどのような影響を与え地震と 結合したのかを考察していきたいと思います。

まず「瓢鮎図」は、民衆的な大津絵に受け継がれました。 大津絵は、琵琶湖南西岸にある滋賀県大津で描き売られていた戯画です。 庶民が自主制作した絵画ということ以外、署名も日付けもない風刺画として、鯰絵と重なる部分が多いと言われています。

大津絵の発祥は諸説あり、寛永年間まで遡ります。 天正14年の天正地震の後に、関西において流布したという説もありますが、 元々は大津と京都を結ぶ海岸沿いの村々などで安価な土産物として売られ、 旅人、百姓、職人、行商人、巡礼、武士など多くの民衆が諸国津々浦々へ持ち運んだものです。
大津絵に描かれる代表的な題目には、鷹匠、藤娘、釣鐘をかつぐ弁慶、為朝、歌舞伎役者、 座頭、鬼の念仏、太鼓をつり上げる雷、外注の梯子剃り、楯持ち奴などがあり、 「猿の瓢箪による鯰押え」は水難防止の護符としてその中に含まれています。

やがて大津絵は全国的に流行しました。文政期には、江戸中村座で歌舞伎 「拙筆力七以呂波」となって演ぜられています(ここでは、瓢箪鯰は瓢箪で鯰を押えるように一向に 要領を得ない様をあらわした大津絵の題材として)。
さらには、三代豊国が「東海道五十三次之内 大津ノ図」(天保年間)、歌川国芳が「程芳流行大津絵」 天保14年(1843)にも題材として描いています。 また、嘉永六年(1853)には、国芳の大津絵を取り入れた判じ絵『流行逢都絵希代稀物』が話題となりました。 やがて、江戸時代中期から後期にかけ歌舞伎や浮世絵によって話題となった大津絵は、 安政大地震時(1855)に登場した鯰絵にも取り込まれました。 鯰絵は、民衆の関心度が高いモチーフを取り入れる特徴がありますから、おそらくは売行きもよかったのでしょう。 つまり、西日本に古くから伝わる大津絵の流行が北上したということにもなるのですね。

ちなみに『藤岡屋日記』(1853)にも、大津絵の「猿に瓢簞鯰」にちなんだ記述があります。 ここでは、浦賀に来航したアメリカ船を地震に例え、日本をゆるがす異国の「鯰」を、鹿島の 要石や瓢箪で押えることを示しています。 他方では、西日本を中心に被害の出た安政東南海津波(1854)時に瓦版などに登場するのは、 瓢箪鯰であるとも伝えています。
幕末の江戸において、地震を表象するのはあくまで鯰であり、押さえているのは要石でした。 それにも関わらず、鯰絵には、大津絵を示す構図や瓢箪や猿が数多くみられます。 擬人化された鯰の着物や民衆の衣装にも瓢箪模様が随所に描かれています。 ということは、鯰絵が流行したこの時期には、地震を押さえる要石と瓢箪2つの存在が混在しているのです。

これらを踏まえると、西の「瓢箪と鯰」は、一向に要領を得ない様を表した「瓢鮎図」のイメージと 大津絵の水難防止のイメージが結合し、江戸の事変の根源である地震(鯰と要石)のイメージに”変容した”と捉えられます。 そして、鯰絵を機に全国的に鯰が地震を表象されるようになったのではないかと考えられます。

参考文献
宮田登・高田衛編『鯰絵―震災と日本文化』里文出版1995年

【神田明神祭礼図と鯰】

今回は、「神田明神祭礼図」に描かれた鯰と鹿島踊についてのお話です。

江戸時代に描かれた「神田明神祭礼図」(白壁町)にみられる行列には「大鯰と要石」の引物と 「鹿島踊をする集団」が描かれています。 鹿島踊は、鹿島事触の影響を受けた民衆による踊りです。 列の先頭の大きな丸く赤い萬度は、からす萬度といいます(図版①)。 後ろ3両目あたりに鹿島踊を踊る集団の男たちが持つ小型のもの(図版②)は、 事触が託宣のときに集まった子供たちに与えていた玩具と言われており、みな太鼓や笛にあわせて踊っている様子がみられます。
『守貞謾稿』には鹿島踊について下記のように描かれています。

また昔は鹿島踊りと云ふ者ありし由。『世事談』に曰く、 寛永の頃、諸国に疫病あり。常陸国鹿島の神輿を出して、 所々にこれを渡し、疫難を祈らしめ、その患を除く。因つ てこれを謹んで踊らしむ。世俗鹿島おどりと云ひて諸国流 布す『守貞謾稿』。

一説によると、この行列は鹿島踊をモデルにしたとのことなので、地震というよりは、 疫病封じをイメージしているようです。ですが私には「大鯰の山車」の方が特徴的に描かれていると思いました(図版③)。
たとえば、列の後ろには、注連縄が張られた要石を乗せ大きな鯰がみえます。 図版①から③をつなぎ合わせると、まるで「大鯰と要石」がモデルにして描かれたようなイメージですよね。

その頃の江戸といえば、江戸の劇場で毎年十一月の顔見せ興行に必ず上演されていた歌舞伎「暫」(天明二)では、 竹熊入道という名で鯰坊主が登場していたと伝わります。そこで鯰坊主はこのような台詞を言うのです。

おれが今この髭をちっとばかり動かすと、この秋の ような地震がするぞ

これは「地下の鯰が暴れて地震を起こすという俗信」が当時の江戸庶民に根付いた意識だということを示しています。 つまり当時の人々にとっては、ナマズは地震、要石は揺れ(ナマズ)を抑える、という認識を日常的に持っていたということになるのです。 それこそ人々にとっては地震の方が大きな関心を持っていたのかもしれないのですよね。

鹿島踊はもともと寛永期に諸国に地震や疫病が続いたために、鹿島神の信者が神輿を担いで諸国をまわり、 疫病を祓ったことがきっかけであると伝えられています。 当時鹿島神宮では、多くの占いの儀式が行われ、これらの信託や予言を伝達する偽事触も多く登場しました。 それでも人々はお告げを拠り所にしたいと願ったことでしょう。疫病と地震は同じくらい恐れられていたのです。
「神田明神祭礼図」に描かれた鹿島踊は、本物の鹿島の神 託を求める民衆の願いとともに、虚言を言いふらす偽事触 が横行していた当時の社会を表現したのかもしれません。

【石になった鯰】

日本全国には「石になった鯰」が数多くみられます。
これまでにご紹介した、鯰にまつわる石仏、石造物、自然石、地蔵は、形体も内容も様々でした。 また、名前にのみナマズがついている自然石や地蔵もありました。 今回は主に「鯰にまつわる石仏・石造物」の由来についてまとめました。

石には神霊の魂がこもるといわれていますが、鯰の石仏・石造物にも、神が宿る石として信仰がみられます。
雨乞い祈願、阿蘇信仰、皮膚病祈願、地震沈めの信仰と、内容や信仰された時期は地域によるのですが、 そのうち古代から昭和初期以前まで、古い時代に遡るほど、鯰の信仰が多くみられます。
たとえば、熊本県 国造神社「鯰宮」にみる阿蘇信仰、熊本県の山出神社「鯰塚」にみる鯰信仰。 これらの石仏には、古代を背景にした神話や伝説が語られ、現代においても信仰がみられます。
また、大阪府八尾市の「鯰地蔵尊」には、1600年代に頻繁に発生した大和川洪水に由来した地蔵が祀られています (皮膚病祈願の信仰)。 ほかにも、福岡県筑紫野市の鯰石には「天満宮縁起画伝」(江戸時代)による菅原伝説が伝承され、 後世には雨乞いによる信仰が加わりました。形体をみると石仏、地蔵、自然石と様々です。

そして、昭和中期以降の時代のものとなると、その8割がナマズの形体をしています。 ほとんどが昭和平成時代に造られたのものなのでネットやSNSなどでナマズの石像物を見かけた方は多いかもしれません。
地震をイメージした石造物には、三重県 大村神社の「水かけなまず」(昭和51年造)があります。 そもそもこの神社には、古来より地震避けの要石が境内に祀られているので「水かけなまず」についても 後世になり地震をイメージし設置されたものです。 こちらは地震避けの信仰ですが、愛媛県の鯰と瓢箪モニュメント(平成7年造)、 東京都池袋の鯰モニュメント(平成8年造)などは、 地震災害を機に制作されています。

ほか、旱魃や洪水と鯰の説話をイメージして造られた石造物には、山口県「鯰和尚」(平成4年造)、 栃木県 巴波の鯰モニュメント(平成4年造)があります。災害をイメージした石造物には、 滋賀県藁園神社「なまずの石像」(平成9年造)があります。 藁園神社には、古来より、災害除け(五穀豊穣)が由来のなまずまつりが伝わるので「なまずの石像」は、 後世になり、昔をしのびつつ、災害のないことを祈り設置され ました。

このように、現代になると由来は「信仰」よりも「災害」をイメージして作られています。 現代において、「地震といえば鯰」というイメージが周知されているとはいえ石造物については、 全てが「地震」のイメージで造られているわけではないことがわかります。

今後も全国で「石になった鯰」は増えていくと思われます。 鯰の形体をした石造物をみつけたら、由来を辿ることで、地域の歴史を知ることができるかもしれません。

【魚の飯食ふ話】

柳田國男の「魚の飯食ふ話」(1942年)には香川県三富郡の財田大野村に伝わる伝説が記載されています。 内容は、里の者が鯰を殺生しようとする際に鯰の化身である僧が止めにはいるといったもので、結局鯰は殺されてしまいます。
なぜ僧が鯰の化身と分かったかといえば、僧に与えた粟飯が腹から出てきたからなのですが、 この説話はほぼ同じ内容で『財田町誌』(1992)にも掲載されています (こちらの場合には「大鯰はその場で灰にし、骨の一部を阿波に持ち帰り、残りは塚に埋めた。 これが鯰塚である。」と付記されています)。

この「鯰の腹から粟飯」型の昔話は鯰伝承にもいくつかみられます。 『日本伝説体系第』と『大川町史』に下記のような説話がありました。

田面次郎池の大鯰を捕まえようと意気込んでいた鵜匠が途中 粟飯の握飯を食べていると、小僧が現われ悲しそうな顔をし たので握飯をあげた。後日鵜に追い回されて死んだ鯰の腹か ら粟飯の握飯が出てきた。その後、大鯰の怨霊の祟りで東讃 にきこえた大池も大豪雨のために決壊した(概要)。

こちらには、具体的に「池の名前」がついているので、民話か伝説か分類するのに迷いました。 地元の方にお話をうかがいますと、この「田面次郎池」は架空の池なのですが 「鯰塚」は実際に実在するそうでGoogle Mapでも跡地を確認することができます(いつか訪れたいです)。 ですので、限りなく民話よりの伝説といえると思います。
今までにご紹介した鯰伝承のなかでは、徳島県の鯰神社と山口県の鯰和尚に「鯰の腹から粟飯」型の昔話がみられます。 たとえば、徳島県の鯰神社では、百姓夫婦の留守中に粟飯を盗む鯰を殺したのですが、 その後女房が病気になってしまうというお話でした。 この説話は『川田史』1930年、『大河波の横顔』1933年、『日本の伝説』1977年、『徳島県の民話』2000年、『徳島県の民話』 『阿波の民話』2013年と、いずれもほぼ同じ内容で記載されています。 ただこちら方が発行年の方が古いので、「鯰の腹から粟飯」型の昔話が「魚の飯食ふ話」に影響されたわけではない とうことですね。 そもそも柳田國男氏も「(香川県三富郡の財田大野村に伝わる説話に対して)一つ書物の中から見付けた」と記しています。 もしかしたら、鯰神社に伝わるこの由来記(江戸時代記)のことを指しているのかもしれません。

山口県の「鯰和尚」にも、腹から粟飯ではありませんが、腹から小豆や赤飯があらわれています。
具体的には、

「日照り時に沼から水を流したらコイ、フナ、ウナギが出て きたので食べ、主の大ナマズも食べようと腹を割いたら小 豆が出てきた」
という話や、

「沼のだぶかえ時に一人の僧が鯰を助けるようにと忠告した が、意に介さず鯰を腹を割いてしまう。すると僧にあげた 赤飯が出てきたのであの僧は鯰の化身であったかと祀った が、以降不幸が続いた」

など、登場する武士や百姓たちの旱魃対策に鯰が登場していると いった内容です。『続防府市史』1960年、『周防長門の伝説』 1976年、『山口県の民話』1981年、『読みがたり山口のむかし 話』2004年に大体は、同じ内容で記されています。

前回お伝えした「物言ふ魚」と「魚の飯食ふ話」に共通している ことは「海神である水魚(鯰)には殺生をしてはいけない」とい うことです。そして鯰伝承を通してみますと、かつて人々は、 鯰の生息(域)と災害(天候と鯰の生態)に、何らかの関係性を 見出していたとよみとることができます。

【「物言う魚」と鯰伝承】

鯰にまつわる民話や伝説には、鯰が言葉を話しだす場面が多くみられます。 魚が人語を話すといえば「物言う魚」を思い浮かべる方も多いと思いますが、 「物言う魚」には鯰についても書かれています。 「物言う魚」には、全国の魚とそれを釣りあげた人々との出来事による説話が取り上げられています。 たとえば、岐阜県の泥鼈、鳥取県の大山椒魚、岡山県の鯰、大分県の大魚、岩手県の鰻の事例では、 魚が話しかける、答える、つぶやくことで釣った人間を驚かせ、魚を持ち帰ることを阻止しています。

また、静岡県の大魚、山梨県の魚、沖縄県の人面魚體の事例では、水神である魚を殺生をしたものには、 水害や災難が降りかかるように構成されています。魚を置いて帰るか、持って帰るかの いわゆる未遂で終わるかどうかで運命が分かれてしまうような印象があります。 何れにせよ、物言う魚とは海神であることを表しているのですね。

そのなかで鯰の説話は、岡山県に二つあります。 一つは、勝田郡古吉野村大字川原の三休淵で、三休というものが大鯰を釣り上げ帰る途中、 大鯰が大声を出すので、びっくりして淵へ戻した話、もう一つは、勝田村大字余野で道善という者が、 大鯰を釣った帰りに道善と名前を呼び立てるので怖くなり、古井戸の中に投げ込んだ話です。

鯰にまつわる伝説にも「物言う魚」のように魚が人語を話す説話があります。 それは、何度かご紹介したことのある静岡県の水神社に伝わる「おとんじょの池」という伝説です。 「おとんじょの池」は、昔松野一右衛門という老人が渕に棲む大鯰を釣り上げると「おとんじょやーい。 おとんじょやーい。」と呼ぶ声が聞こえ、恐ろしくなったので、 池の畔へ戻り釣った鯰を放すと鯰は大蛇となって波の中へ消えたという構成になっています。
この説話は『初倉村誌』(1965年)に記載されているものですが、 これとほぼ同じ内容で『島田・史話と伝説 百話』(1972年)や『日本昔話通観』(1980年)にも受け継がれています。

ほかにも、群馬県前橋市には『群馬県史』(1980年)に4つの 地域による説話が記されています。例えば(中町)の麦刈りでは ナマズが人に化けて物を言い、(上大島町の清水)では、腰籠 に入れられたナマズが「オトボウヤ、オトボウヤと鳴き、(下 大島町の西掘)ではナマズの親が出てきて「イヌボウヤ」と呼 び、(下沖町の野中)では清水川で切られて腰籠に入らないナ マズが「オトボウ、オトボウ」とそれぞれ鯰が呼んだので怖く なり置いて逃げた話があります。この伝説についても、その後 ほぼ同様の内容で『日本昔話通観』(1986年)に記載されて います。『日本昔話通観』ではタイトルが「もの言う魚」です。 「物言う魚」に影響を受けて作られたのかもしれません。
このように年代的にみても「物言う魚」の構成は、後々継承さ れていくように思います。

(次回に続きます)
参考:柳田國男「物言う魚」『一目小僧その他』
小山書店1934年

【雷と鯰】

鯰絵には、雷(ここでは擬人化された雷をさします)の描かれている画が、 おおまかに数えただけでも20種類はあります。
(雷は、登場人物のなかに紛れていたり、掛軸の画のなかに 小さく描かれていることもあるのですが、今回は代表的な画を 収集しました)
そのなかには、同じ構図であるにも関わらず、衣類の色の差異や模様の有無、背景色、 ぼかしの有無など、趣向の違いが見られます。 一見、工夫を凝らしているようにもみえるのですが、これは”差異がみられる版が存在する”ことを示しており、 売れ行きを みて再版された過程で生じたものか、もしくは別の絵師によっ て作られた別版によるものと思われます。

鯰絵は、およそ230種類の国内所蔵(2014年調)があるのです が、雷の登場する鯰絵は、全体のおよそ7%です。ですが20種 類あるうちの差異のみられる版が7種類ですから、それだけ需 要が高く、非常に注目された鯰絵に雷が登場していたことにな ります。

この世で、特に怖いものを順に並べたことばを「地震雷火事 親父」と一般的に表現されていますよね。この「親父」に関し ては、一家の大黒柱として重んじられ、権威を持っていたもの を指すと伝わりますが、強風を表していたという説もあります。 この言葉は、鯰絵の画題にも使われていますが、鯰絵の場合、 順序からみて「雷は地震にかなわないもの」と噂されたことを 言い表しているので、後者の意味合いが強いように感じられま す。

夏季の雷雲は山岳地で発達し、それが川などに沿って低地に移 動してゆくそうです。地震前や発生時には発光現象が確実に存 在したという証言が多いことから、歴史災害において、地震と 雷は常に関連づけられていると伝えられています。

江戸の人々は、どのような恐怖心を持って雷を捉えていたので しょう。鯰絵のなかの雷は、相撲や拳あそびなど、遊びで勝負 を競う画によく登場しています。

ということで、今回は、雷の登場する鯰絵をいくつかご紹介さ せていただきますね。

「鬼・石・猿・鯰」
「地しんどう化大津ゑぶし」
「地震けん」

【姿を変える鯰】

鯰にまつわる伝承には「姿を変える鯰」の説話が多くみられます。 その内容をさらに分類していくと「化ける鯰」と「変容する鯰」に大別することができます。
姿や形を変えるという意味では同じ括りなので、私は民話と伝説に分類しています。
民話と伝説。
その定義は書籍によっても其々ですが、ここでは、民衆によって主に口伝で伝えられてきた物語を民話、 地名や人名などの具体的な固有名詞のある物語として伝わったものを伝説としています。 そして伝説からは、後世に継承されているかどうかを確認します。なぜかというと、 単に成りかわるのが「化ける鯰」とすれば「変容する鯰」にはその状況にも変化がみられるからです。

その一方で、民話のなかには、実在しない地名や川などが登場しても、 その説話が元となり、実物化したケース(場所や川や祠や郷土玩具など)もあるので、 その境界線が実に曖昧な事例もあります。

そして「姿を変える鯰」の説話のなかで「化ける鯰」は民話に多く「変容する鯰」は伝説に多くみられます。 民話の例をいいますと、岩手県では、沼のほとりで苦しがっている大鯰を沼へ助けたことで、 女の子に化けて恩返しをする民話、群馬県では、ナマズが化けて「オトボウ」と抱きつく民話、 徳島市には川に身を投げて生まれ変わった白ナマズの民話などがよく知られています。 伝説の例では、宝剣から変身した大鯰の伝説、身を投じた女官やお姫さまから変身した鯰伝説、 女中に化けた鯰伝説などがあります。 このように、鯰は民話や伝説のなかで「人間」に変身、もしくは「人間から鯰」に頻繁に変身しています。 そして人間に変身する場合は、何かを訴えたいとか忠告したいといった目的で登場します。 狐や狸ではなく、なぜ鯰は化けやすい生物と見られていたのか。 辿ってみると、古くは『宇治拾遺物語』にその土台があるように思います。 ただこの場合は、鯰が化けているのではないのですよね。 『宇治拾遺物語』ではある僧の夢に、死んだ父親が夢枕に現れて「自分の化身であるなまずを殺さないように」と 告げています。そうだとしても、この「夢枕のお告げ」で繰り広げられる構成は、 全国的によくみられる説話の形式でもありますね。 「変容する鯰」の場合は『竹生島縁起』にその素地がみられます。

なぜ鯰は姿を変えるのか、何故どじょうやうなぎではないのか。 また改めてお話ししたいと思います。

今回は、「姿を変える鯰」の説話をまとめました。
(写真2016-2017年撮影)

栃木県 飛山城史跡公園
大阪府 鯰地蔵尊
兵庫県 石上神社
熊本県 鯰塚

【人助け鯰】

鯰にまつわる伝承には、鯰が人を助ける説話が多くみられます。 たとえば、栃木県では溺れた子供を鯰が背中に乗せて助ける民話があり、 福岡県では負傷した武将を背中に乗せ鯰が助ける伝説などがあります。
内容は地域によって色々ですが、助ける際には鯰の背中に乗せて運ぶことが共通しています。
ほかにも、熊本県の神社では、洪水で流された御神体を鯰が救った説話とともに祭が執り行われるという 「災害を機に生まれた説話」と混合した伝承があります。 また、福岡県には「鯰を食べないこと、川を美しくすること」を条件に、飢饉から救われる伝承のある神社があり、 分類としては[祟り鯰]や「災害を機に生まれた説話」と複合している伝承もみられます。
背中に乗せるという説話が多くみられるのは、鯰に安心感や親近感があるからなのでしょう。 それだけに鯰が人々の日常に馴染んでいたことを表しているように思います。

今回は[人助け鯰]を題材にした民話や伝説をまとめました。 千葉県飯縄寺の伝説に登場する鐘ケ淵の場所がわかりましたので追記しました。

(写真2016-2017年撮影)
栃木県 巴波川
千葉県 飯縄寺(鐘ケ淵)
福岡県 賀茂神社
福岡県 大森宮

【祟り鯰】

鯰にまつわる伝承には、沼や川が関わる説話が多くみられます。 溺れた子供を背中に乗せて鯰が助ける話もありますが、なかには、鯰を捕まえたり殺したりすると 祟りが降りかかる類の内容もあります。
そもそも鯰は淡水魚ですから、沼や川にちなんだ出来事が繰り広げられる内容が多いのは当然かもしれません。 でもそれなりに意味があるのです。
たとえば、それぞれの説話には架空の沼や川、池が多く取り上げられていますが、 実在する沼や川を訪れるとひと気のない寂しい場所もあります。 祟られたままの怖い結末で終わってしまう物語がみられるのは、何故鯰を殺生してはいけないのか、 を読者が考える内容にまとめられているからなのですね。 また、自然環境保全の大切さを伝えている場合が多いのです。 だからこそ鯰を殺生したことで祟りや災難が降りかかると、川や沼の主である鯰に神性を見出し、 祠や社に祀られる結末が多くみられるのです。

今回は、これまでご紹介した鯰伝承のなかから「怖い鯰」や「祟り鯰」を題材にした民話や伝説をまとめました。
地域によって特徴があるので類書も載せました。
なにかの参考になればうれしいです。

山口県 「おしょうなまず」
静岡県 「おとんじょの池」
栃木県 「三川淵の大なまず」
香川県 「羽間川の鯰岩」

(写真2016-2017年撮影)

現代ではすでに埋め立てられ存在しない場合も珍しくありませんが実在する沼や川、池を取り上げた伝説も多くみられます。

【説明板②】

今回の寺社や地域には、皮膚病祈願の鯰絵馬信仰が伝わります。 絵馬といっても、板でできたいわゆる家型の絵馬とは限らず、地域によってそれぞれ違いがあります。
たとえば、絵馬の形は四角形や長方形のものもあり、素材は木材に限らず、銅、石、紙など素材も様々です。

今回は、鯰絵馬信仰の伝わる寺社の貴重な案内板や説明板をご紹介します。 鯰の説明箇所に矢印をつけています。

和歌山県 大氏神社
熊本県 上川阿蘇神社
広島県 勝福寺
福岡県 七霊宮

【記録】

鯰の伝承地には、地震よりも水にまつわる説話を語り継ぐ町や地域が多くみられます。
歴史災害を元に作られた伝説もありますが、災害が発生した年や場所が必ずしも一致するとはかぎりません。 史実がどのように裏付けられているのか考慮しなければならない説話も時折みかけます。
一方で、災害が繰り返されると、記録として残すことが難しく、地元の方が残したメモ書きや日記なども貴重な情報になることもあります。 災害を鯰に置き換え語り継ぐ民話や伝説はそれだけに大切な意味を持っているのです。

今回は、これまでご紹介したなかで水にまつわる鯰伝承を3件を集めました。

福岡県・武守権現神社
熊本県 小島阿蘇神社
佐賀県・與止日女神

【説明板②】


全国には鯰にまつわる伝承の残る寺社や地域が多くありますが、口伝によるものが多いので、 案内板や説明板にその由来の記載を見かけることは少ないかもしれません。

通常、案内板や説明板の制作や設置はその地域の公的機関で行われることが多いのですが、 口伝よる記載となると詳細を知る担当者や地域の方に辿り着くことが難しい場合があります。
市史などでも近代の発行ですと旧のものと鯰伝承の内容に微妙な差異がみられることもあります。

今回は、そのなかでも市史や町誌等に記載される伝承や古典籍に残る記録など古来から伝えられている鯰伝承を一部取り上げました。
(”ナマズ”についてふれている箇所に矢印を記しました)

福岡県 大森宮
福岡県 鯰石
福岡県 伏見神社
佐賀県 豊玉姫神社
茨城県 鹿島神宮

【説明板①】

鯰伝承が伝わる寺社の案内板や説明板をまとめました。
鯰にまつわる伝承には、全国的に有名な神事もあれば、知る人ぞ知る伝承も多くあります。
根付いているからこそなのかもしれませんが、初めて訪れるとなると説明板や案内板等があると有難いものです。 なにより素晴らしい伝承が周知されていないのはもったいないことだと思いました。
準備が整いましたら、カテゴリー別に分類したHPを制作したいと思っています。 お役立ていただけましたら幸いです(諸々手続きが必要なこともあり、少々お待ちいただくかもしれません)。

今回ご紹介するのは、地域でよく知られた鯰伝承地に設置されている案内板や説明板です。
由縁の概要を記載させていただきます。もちろん質問していただいても構いません。 どうぞよろしくお願いいたします。

滋賀県 藁園神社
福岡県 賀茂神社
三重県 徳蓮寺
京都府 桑田神社
熊本県 乙姫神社

【皮膚病祈願:追記】

以前、東日本において皮膚病に効験のあった信仰を表した錦絵を2種類(疱瘡絵と奪衣婆信仰)ご紹介しましたが、 ほかにも、文政期以降に、西両国でおこなわれた興行の様子を表した「見世物絵」があります。
「見世物絵」には、当時人々が見たことのないゾウ、ヒクイドリ、ラクダ、ヒョウ、トラなど、 珍しい舶来動物が描かれているのですが、珍しいというだけで価値があり話題となりました。 実はこれらの動物見世物にも「疱瘡麻疹疫疹」のご利益があるとかなり長い期間に喧伝されたのです。
たとえば見世物絵の中には、オランダ人によって長崎にもち込まれたヒトコブラクダが描かれているのですが、 ラクダのご利益は様々な効用をもつものとされ、疱瘡除けとしても伝わり、 大阪難波新地での興行も好評で江戸でも大当たりとなりました。演奏とともにラクダがひきだされ、 場内をめぐるのが基本の見せ方ですが、それを一日に何度も繰り返したようです。
一過性の流行絵とも考えられるので、西日本で流行した鯰絵馬の代わりとは言い難いのですが、 このように東日本には、鯰絵馬信仰の代わりとなる皮膚病祈願の信仰が散見されます。

加えて、先日お伝えした埼玉県にて採取された1枚の鯰絵馬の件についても追記します。
その鯰絵馬は現在、大阪の国立民族学博物館にて所蔵されているのですが、 埼玉県で採取した入手状況は不明であるとのことでした。 念のため、収集されたその地域の教育委員会発行の図録や記録等を調べ地域の方にも伺いましたが、 鯰絵馬の存在はやはり確認することができません。その鯰絵馬は、鯰の鰭の様式に、 西日本ではあまり見られない特徴があることは認められるのですが、西日本の地域で作成した人が、 埼玉県に移住した可能性があるかもしれません。 どちらにしても埼玉県の地域で「鯰絵馬信仰があった」という事実には繋がらないという結果となりました。

ちなみに疱瘡絵も奪衣婆が描かれた錦絵は、歌川絵師たちが多く手がけています。 とくに国芳は、奪衣婆をモチーフにした錦絵には、積極的に取り組んでいたようです。
ですが、その数年後に流行した鯰絵(なまずえ)には、奪衣婆が描かれたものがない(「地震冥途ノ図」以外は)。
当時、奪衣婆信仰の流行とともに奪衣婆が描かれた錦絵が売れていたことが伝えられているだけに不思議でしたが、 鯰を地震、のイメージとして売り出すために「皮膚病」という印象を植え付けるような表現が見られないのだと 結論づけました。

と、ここまでお伝えしていましたね。ここからはその補足になります。
国芳は、安政2年2月から吉原の岡本楼の主人に依頼され「一ツ家」という扁額を作成し、4月 に浅草寺に奉納しています。 「一ツ家」のなかの奪衣婆は、旅人を泊めては殺し、金品を奪うという悪行を行っているので、 ここでは『発心因縁十王経』にみる「三途河のほとりで死者の衣を剥ぎ、恐ろしい形相をした奪衣婆」を イメージしています。 つまり国芳たちにとっても、ご利益に様々な効用をもつ見世物絵のように「奪衣婆信仰」についても、 皮膚病治癒祈願の効能以外の効能も担っていることを認識していたのかもしれません。

国芳たちが敢えて区別したかどうかは憶測になりますが、東日本には、それだけ多様な情報や状況があったこと、 すなわち江戸後期の 東日本で「皮膚病の治癒祈願を目した鯰絵馬」が存在しない一因なのです。 ですが疱瘡(皮膚病)平癒に呪的な効験があることを期待されていたという意味では、 鯰絵馬同様の性質を持っているのです。

今回は「なぜ東日本には鯰絵馬がみられないのか・完結編」をお話しさせていただきました。

【鯰と地震】

鯰という生物は地震をイメージするだけではなく、鯰絵馬、祭、石仏・石造物、説話、要石、食、薬など、その民俗は多様性に富んでいます。
鯰にまつわる民話・伝説・俗信を収集すると、意外に地震をきっかけとした内容が少なく、雨乞いや干ばつ、 洪水など地震以外の自然災害の方が目立ちます。 ですが、地図上に伝承地をマッピングすると、断層帯にほど近い場所に発祥していることも明らかなのです。
そもそも「地震といえば鯰」の関係を知るためには、鯰伝承地と断層帯との因果関係を分析することが重要です。 そこでかねてから数値化する方法を模索していた所、専門の先生によるご指導とご協力のもと相関の解析を行うことができました。 そして、断層の経緯度と寺社(61件)の経緯度の相関を割り出すと、明らかに「相関が高い」という結論が算出されたのです。 これは、断層に近い場所に鯰伝承が発生している、もしくは、鯰伝承の発生した場所は、 地震が集中して他より多く発生した地点という結果がでた、ということになります。
ですが、同時に民俗学の視点から新たな課題が残りました。 それは各伝承地や発症年、内容(緯度経度、論拠)の信憑性です。 鯰の伝説には、固有名詞が含まれているとはいえ、論拠を辿って行くと口碑によるところが大きく史料が 残されていることがほとんどありません。 その上、自然災害により史料が消滅したり、寺社の移転がある地域もあるからです。

ちなみに、そのなかでも阿蘇神社とその分霊を祀った神社の位置を、地図上で確認すると、阿蘇山(阿蘇谷)を囲むように 鎮座していることがみてとれます。 どの阿蘇神社も断層に近い位置に鎮座しています。 阿蘇地方の鯰といえば『後漢書倭伝』においては、阿蘇地方に鯰の存在が認められる記述があるとされ、 阿蘇神話においては、鯰に神性が与えられ現在も語り継がれています。

地震のメカニズムが解明されていない時代ですから、目に見えない地震の「揺れ」の存在は、当時の人々にとっては 極めて畏怖の念を抱くものであったと考えられます。鯰に神性が与えられていることは自然な流れだったと考えられます。

今回は、「鯰伝承と地震との関係」についてお話しさせていただきました。

(さきほどの解析結果は、実見調査した一部地域に限定したものでしたが、鯰の伝承と地震の関係を、地震学の視点から 踏み込んだ新たな一歩となりました。ご協力いただいた先生をはじめ、問題点と今後の課題をご教示くださった先生方には大変感謝しております。全ての鯰伝承地と断層との相関の解析を行うには、道のりは険しいかもしれませが、 時間をかけて探究していきたいと思っています。
このような伝承をきっかけに、災害に対する意識を身近な ものにしていくためには、どこかで折り合いをつけること も大切かもしれません。)

【鯰絵馬の行方】

いつもご覧いただき有難うございます。facebookページ「鯰の民俗事典」を開設してからおよそ2年が経ちます。
鯰の民俗がこれからの時代に役立つと信じ、更に充実したものにしていきたいと思っています。 今後ともよろしくお願いいたします。

今回は、昨年までお伝えしていた「鯰絵馬」の東日本版となります。ですが、東日本には鯰絵馬がみられません。
鯰絵馬は、主に西日本を中心に存在していおり、私の行った実見調査でも、最西端の鹿児島県、最東端の静岡県の範囲となりました。 また、静岡県といっても1件のみでその鯰絵馬は、浜松市尊永寺・蛸薬師堂に掛けられていたものでした (現在は大切に保管されています)。
東日本の鯰絵馬を探したところ、武蔵野美術大学 民俗資料室には、福岡県の伏見宮と人丸神社の鯰絵馬が寄贈されていますが、 60〜80年代に寺社や関係者から譲り受けたものとうかがいました。つまり、それも西日本の絵馬なんですね。

他にも埼玉県の某博物館にも鯰絵馬が1枚所蔵されています。 ただその鯰絵馬がどの寺社、地域に奉納されていたのか、どのような経緯で所蔵されているかなどの詳細は、 現在、回答をお待ちしているところです。
鯰絵馬奉納の年代は主に江戸時代以降から昭和初期です。
ということは、少なくとも、鯰絵馬信仰が西日本へ浸透したと推測される江戸時代後期には、 西日本に流行した鯰絵馬信仰は、東日本には広まらなかった、ということが言えるのです。 なぜだろうと疑問でしたが、おそらくは、皮膚病祈願の信仰が東日本では別の信仰に変容したからなのではないでしょうか。 言い換えれば、「皮膚病祈願の図像」が絵馬ではなく、別の「図像」に変化したからといえるのかもしれません。 ですが、東日本といっても、時期、地域、信仰などがあまりにも幅広い。 考えてみれば、江戸時代の中期か後期か、もしくは地域による願掛の在り方にも多様性がみられると思うのです。

そこで、ここでは鯰絵馬と同じように皮膚病祈願の霊験が伝えられる浮世絵を2種類取り上げようと思います。
その一つが、疱瘡(天然痘)よけに鍾馗や桃太郎、鎮西八郎為朝などを描いた赤摺りの錦絵、疱瘡絵です(多色摺もあります)。

疱瘡絵は、護符的機能をもたらすツールの1つとして人々に受け入れられていました。 疱瘡は、ウィルスによって飛沫や接触により感染する流行病で皮膚に症状が現れるものです。 疱瘡に関する史料の初見は奈良時代の『続日本紀』であるといいますが、元禄時代から普及し、 疱瘡見舞いに贈る慣習が確認されたのは19世紀全般にわたります。 つまり、奉納する鯰絵馬と、護符として使用するという疱瘡絵とでは、内容に明らかな違いがあるのです。

それでは、ほかに何があるのかといいますと、私がその一例としてあげたいのは奪衣婆信仰(奪衣婆を描いた錦絵)です。
奪衣婆信仰は、主に嘉永2年春頃(1849)に流行しました。 享和文化年間(1801〜1818)から子供の咳の平癒を祈る ご利益を求め人々が祈願していた信仰ですが、流行していた嘉永 2年(1849)頃には鯰絵馬信仰同様、瘡、疱瘡、麻疹に霊験があったことが、 『藤岡屋日記』や浮世絵「三途の河 老婆佘」(国芳画)などでも確認することができます。

さらに、奪衣婆信仰は、鯰絵にも関係していたのでは?と思わ れることが興味深いのです。具体的なことは次回に続きますね。 今回は「なぜ東日本には鯰絵馬がみられないのか」に ついてお話させていただきました。

【鯰絵馬の置かれている状況】

今回は、鯰絵馬の置かれている状況についてお話しします。
鯰絵馬は、近年、許可を得た上で見ることができる寺社や地域が多いです。 そうはいっても、現在においても、路傍の小祠、大社大寺の境内末社の祠堂など、 誰でも目視することができる事例はあるのですが、ほんの一部です。
そもそも、野外に置かれた祠に掛けられたまま、保持を強いられている絵馬の場合は、経年劣化が進んでいくため、 現実問題として、鯰絵馬の存在は、消滅しつつあります。
また、鯰絵馬は、”小絵馬(30cm以下のものを指す)”として分類されます。”小絵馬”は、 その保護や維持管理にかかる費用について、公的機関からの助成金や補助を受けられることがほぼ不可能ですから、 それも大きく影響していると感じます。

このように、小絵馬の文化的及び美術的な位置づけや状態は高いとは言い難く、 文化財未認定のため行政的援助もありません。 寺社の管理者や地域に住む住人たちの努力によって、その存在がようやく保たれているのです。
そのため、実見調査の際は、所有者との連絡がままならず、確認を諦めなければならなかった地域や、 行方が不明な絵馬も存りました。”絵馬を一定の状態に保つ”ということは大変難しいことだと思います。

もちろん、それでも後世に伝えたいと大切に鯰絵馬を管理されている管理者の方々も多くいらっしゃいます。 ですが、同時に多くの管理者の方が、鯰絵馬の盗難被害に悩まされておられます。 それ故に、管理者が常駐していない寺社では、盗難防止のため祠や本堂などの鍵が掛けられている地域が増えているのです。

ちなみに、鯰伝承の伝わる寺社や地域は、地域特有の言い伝えに付随していることが多く、 川・沼・淵・池に近い場所によく見られます。 鯰絵馬や鯰の石造物についても現地を訪れると、奥深い山の麓や人気のない沼のそばに祠や地蔵が祀られていることが 散見されました。  それについては、危険な場所に近づかせないよう、地域住人の知恵が生んだ口伝が伝播されているようにも思いますが、 鯰絵馬については、主に皮膚病祈願を目的としていますから、一目を避ける意味があったのかもしれません。

今回は、鯰絵馬の置かれてた状況について、現状をお伝えさせていただきました。 諸々の理由で、言い伝えや鯰絵馬所在の引き継ぎが消滅している地域もありますが、 少しでも鯰絵馬にまつわる伝承が薄れていてしまわないよう後世に伝えていきたいと思います。 いつもお付き合いいただき有難うございます。

【鯰絵馬に託す願い】

かつて人びとは、どのような願いを託し、鯰絵馬を奉納したのでしょうか。
祈願内容を分類しますと、私が把握した限りでは約7割が皮膚病という結果となりました。 とはいえ、ほかにも安産祈願、病気平癒、子孫繁栄、子育て、歯痛、眷属と、 複合した祈願内容を持つ寺社が多いことを踏まえると、およそ9割が皮膚病祈願であるということになります。

皮膚病は古来「癜病」と表され、現代まで伝わる呼び名は、白なまず、癜肌、ナマヅ、なまずはげ、瘡、腫れもの、 じんましん、でん瘋、など地域によって様々です。 その由来は、鯰の腹一面には鯰に似た斑点があるところから鯰絵馬への信仰に繋がったといわれています。
これは、いわゆる視覚的な印象に影響を与えているのですが、その一方で、皮膚病の「しろなまず」 と魚の「鯰」を引っ掛け、絵馬上に「白い鯰」の絵を描き、病名の「癜」は訓読みで同じく「なまず」 であることを由来とする説もあります(語呂合わせとか)。 先行研究には『湖中産物図證中巻2』『医心方』『病原論』にて症状や治療法例があげられています。

ですが、ほかにも『都風俗化粧伝』にも記載を見つけました。 例えば「白癜風を治する伝」の項には

右こまかに粉にし、葱の白根を五、六本、手一そくに切り〔手一束とは、手にて、一にぎりのこと也〕、その切り口に粉薬をぬりてすり付くるなり。いかほど治りがたきなまずにても、この薬にてよく治する奇法なり。

とあります(「黒癜風を治す伝」は別療法ですね)。

また、鯰絵「即席鯰ばなし」にも、癜肌を取り上げ地震にかけて揶揄している場面があります。 鯰絵には、民衆の関心を引くテーマが多く含まれていますから、皮膚病の癜は、幅広い年代に関心の高い 病気だったといえることが示唆されています。
つまり『都風俗化粧伝』(1813)は当時の江戸で流行した美容の手引書ですから、皮膚病に苦しめられていた人たちが、 鯰絵が流行した幕末まで存在していたことを物語っているのです。

つまり、この時代に東日本の地域においても「「鯰」=「皮膚病」という概念があった」ということが明らかです。 鯰の表象は、「鯰」=「地震」だけではなかった、ということになるのですね。

それでは、なぜ東日本には鯰絵馬がみられないのでしょう。 続きは次回になります。

写真は、鯰の数にも特徴があるので、鯰一匹、二匹、多数の構図の代表例をあげさせていただきました。 鯰一匹の構図は、子供に関係のある祈りであり、二匹の構図であれば夫婦、良縁、多数の構図は家族に 関連したものと考えられています。

今回は「鯰絵馬は何を表していたのか」についてお話させていただきました。

細田博子『鯰考現学—その信仰と伝承を求めて』里文出版 2018年
細田博子「鯰絵馬に込められた病平癒について」『國學院雜誌』118広報課 2017年

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